背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

 70年を超えるカープの歴史において、永久欠番に指定されている背番号は3つしかない。そのうちの一つが、今回取り上げる『3』。カープファンには今さら説明する必要もないだろう、“鉄人”衣笠祥雄が背負い続けたものである。

 衣笠以前には6選手がつけているが、初代は辻井弘。大学時代から活躍し、太陽ロビンスなどを経て球団創設時にカープに移籍。初代主将を務め、当時33歳ながら攻守に活躍した。在籍は2年と短いが、黎明期の功労者として名を残している。

 2~4年程度の選手が多く、入れ替わりが激しかった番号だったが、衣笠以前で最長となるのは1955年から10年間プレーした平山智だ。ハワイ生まれの日系二世で身長160センチと小柄だったが、打撃・走塁・守備ともに活躍し、常に全力でグラウンドを駆ける姿は“フィーバー”とのあだ名がつくほどだった。

 結果的に『3』の変遷に終止符を打つこととなる衣笠祥雄の登場は1975年。1965年の入団からこの年までは『28』をつけており、鉄人28号からの連想で“鉄人”のニックネームがついた。後の連続出場記録のイメージが強く、体の丈夫さからの命名と思われがちだが、もっと古いあだ名だったわけだ。

◆衣笠自身、そしてチームの転機ともなった1975年

 この1975年は、衣笠にとってあらゆる意味で転機となった。それまでの一塁手(入団時の捕手から転向)から三塁手に起用され、同時に背番号も変更。「背番号3・サード衣笠祥雄」が誕生した瞬間だ。以前から体の頑丈さには定評があったが、ここから山本浩二と共にチームの柱としてさらなる活躍を見せた。

 1975年はカープが帽子の色を赤に変更した、いわゆる“赤ヘル”時代のスタート。初優勝も遂げており、球団の歴史の中でもターニングポイントとなる重要な1年として記録されている。そこに、全130試合に出場し21本塁打、打率.276の成績を残した衣笠の功績は計り知れない。

 以後、彼が打ち立てた記録は文字通り“枚挙にいとまがない”ほど。リーグ優勝5回、ベストナイン3回、ゴールデン・グラブ賞3回。1976年には盗塁王、1984年には打点王とMVPも獲得している。そして極めつけが1987年、2131試合目でルー・ゲーリッグの世界記録を打ち破って達成した連続試合出場だ。

 この功績が称えられ球団初の国民栄誉賞を贈られた後も連続出場を続け、1987年の引退まで記録を2215試合に伸ばした。記録自体は1998年、カル・リプケンによって破られているが、日本球史に残る衣笠の偉大さは変わるものではない。ラストシーズン終盤の1987年9月、球団は衣笠の背番号『3』を永久欠番に指定した。

 引退後は野球解説者、タレントとしても活躍し、1996年には野球殿堂入り。2018年にがんで亡くなった際には、改めてその偉業が話題となった。この先も、『カープの背番号3』は『鉄人の番号』として記憶されていくことだろう。

【背番号『3』を背負った主なカープ選手】
辻井弘(内野手/1950年-1951年)
平山智(外野手/1955年-1964年)
衣笠祥雄(内野手/1975年-1987年)
※1987年9月21日、永久欠番に制定。