カープがV奪還、36年ぶりの日本一を旗印に、佐々岡真司新監督のもと調整を続けている。長いカープの歴史の中で、これまで監督としてチームを率いたのは16名。歴代の監督は、どのような思考のもとチームをつくり上げてきたのだろうか。75年の初優勝以降の監督4人をピックアップし、当時を知るカープOBの証言と共にそれぞれの監督哲学を探っていく。
(広島アスリートマガジン2018年4月号掲載/原文まま)

山崎隆造(やまさきりゅうぞう)/1958年4月15日生、広島県出身。76年ドラフト1位でカープに入団。83年から3年連続3割を達成するなど、髙橋慶彦との1、2番コンビとして、古葉監督の元で機動力野球を体現した。

 私がプロ入りした当初の監督が古葉竹識監督でしたが、本格的に古葉監督の元でプレーしたのはプロ2年目の78年です。右打ちだった私はスイッチヒッターに挑戦することになりましたが、進言してくれたのが古葉監督でした。すんなり左打席の感覚をつかんだ私はファームで結果を残すことができ、プロ3年目の79年夏に一軍昇格できました。

 今でも記憶しているのは、一軍に昇格したばかりの私を巨人戦でスタメン起用し、プロ初安打を打つことができました。当時全く実績がない選手だった私をすぐにスタメン起用してくれたことは、今思い返してみてもすごいことだと感じます。

 79年、80年にかけて2年連続日本一を達成しましたが、この時期に古葉野球を本格的に体感し始めました。当時の古葉さんは『口数が少ない監督』という印象でしたが、若かった私はよく怒られました(苦笑)。古葉さんは私に対し、まず『目で物を言う』といった感じでしたし、そんな古葉さんに威厳を感じていました。

 普段からしっかりと一人ひとりの選手を見ている監督でしたので、私たちには練習中も試合中も絶対に気を抜けない雰囲気が常にありました。後に聞いた話では、『監督というのは選手をずっと見続けるのが仕事だ』と仰っていたようです。選手を見続けることで、ちょっとした仕草からも調子を見極めていたのだと思います。