毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。10月11日の開催まで1カ月を切った。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語った、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 今回は1997年ドラフト4位でカープ入団し、ルーキーイヤーの1998年にリリーフ、ストッパーとして9勝18セーブを挙げる活躍を見せ、高橋由伸(元巨人)、川上憲伸(元中日)、坪井智哉(元阪神など)らとハイレベルな新人王争いを演じたした小林幹英(現カープ二軍投手コーチ)獲得までの舞台裏をお送りする。

プロ1年目に54試合に登板。9勝18Sと大車輪の活躍を見せた小林幹英。現在はカープ二軍投手コーチを務める。

◆三度目の正直でのドラフト指名

 野球漫画の超ロングセラー「ドカベン」シリーズに登場する、主人公達が活躍した明訓高校は、原作者・水島新司の実家の近くにある高校から名付けたと言われています。

 その新潟明訓高を現実に1991年の夏の甲子園に出場させたエースが小林幹英です。2年生の時から豪腕投手としてプロ野球のスカウトにも知られていましたが、制球力が定まらず、まだ粗削りだった事もあって、この年のドラフトでは彼は指名されず、専修大に進学しました。

 専修大は、カープでは法政大、駒澤大と共に出身者の多い大学(2004年時点)で、昭和50年代の黄金時代を築いた古葉竹識元監督と寺岡孝元コーチ、現役選手では町田康嗣郎と黒田博樹を輩出しています。

 小林幹英は黒田の1年先輩でしたが、その頃の専修大は強豪揃いの東都大学リーグの中では二部リーグでした。しかし小林はエースとして4年間で18勝を挙げ、最後の年には念願の一部リーグ昇格を果たしました。この活躍が評価され、1995年秋のドラフトでは、ある球団と上位指名の確約ができたと言われています。そのため、我々カープも小林の活躍はもちろん知っていましたが、指名を断念するしかありませんでした。

 しかしその球団は、ドラフト会議直前に小林の指名を見送りました。どうやら「(レベルの落ちる)二部での活躍だから、プロで活躍できるかどうか……」という理由だったようです。彼は二度目の指名漏れとなり、社会人のプリンスホテルに入社しました。

 プリンスホテル時代の2年間では、入社した最初の年に都市対抗野球に出場しましたが、高校や大学時代の輝かしい活躍から比べると、彼にとっては不本意だったかも知れません。同社の系列企業である西武ライオンズの東尾修監督(当時)からは「プロでは厳しい」との見方をされていたそうです。

 年数を重ねるにつれ、プロへの道は遠のいていくと感じた小林は、高校時代の恩師である新潟明訓高・佐藤監督に「プロへ行けなかったら野球をやめる」と、就職の相談をしたとも言われています。実はこの時結婚も決まっていたようで、野球にこだわらず将来を真剣に考える必要があったのは言うまでもありません。

 しかしそんな小林に注目したのが、我々カープの苑田スカウトでした。豪快なフォームから投げ込む150km近い速球と、鋭く落ちるフォーク、さらにスライダー、カーブのコンビネーションで、高校、大学時代と比べてもコントロールが良くなり、完成度は高くなっていました。

 我々は彼を即戦力の投手として、1997年秋のドラフト会議では4位で指名しました。小林としてはまさに三度目の正直でのドラフト指名となったのです。

 この年は社会人からの指名は1位の遠藤竜志(NTT関東)と小林の二人でした。遠藤については、即戦力というよりは、1~2年後を期待した素材優先での指名でした。

 私は指名後の挨拶で、初めて彼と顔を合わせました。大学、社会人を経由しての入団とあって、礼儀正しく非常にいい第一印象でした。入団発表にはご両親のほか婚約者の方も一緒でした。「もうすぐ結婚しますので、今家を探しているところです」という事でした。「新婚から縁もゆかりもない初めての土地というのは不安ではないか」と尋ねると、「いいえ、僕は父親の仕事の関係で、小学校時代、広島に住んでいた事がありますし、叔母も広島にいるので不安は全くありません」と返ってきました。

 ドラフトで指名されて以来、挙式、退社手続き、入団発表と慌ただしい日々を送りながら、念願のプロ野球選手としての最初のシーズンを迎えました。彼は自主トレ、キャンプ、オープン戦でアピールし、開幕一軍入りを果たすことになります。

 小学生の頃、観戦に行った事もあるという広島市民球場で、小林はいきなりそのベールを脱ぎました。1998年4月3日、中日との開幕戦。史上最年長(42歳)の開幕投手となった大野豊が3点を先制された直後、6回表から二番手として初登板したのです。

 小林は6回と7回の2イニングを、立浪からのプロ初奪三振を含む5三振を奪う快投を見せました。すると7回裏に味方打線が一挙6点を奪って大逆転。8回からは前年の新人王である澤崎俊和が抑えて、見事セ・リーグでは9人目となる新人での開幕戦勝利投手となったのです。この4月、チームは14勝8敗。小林は何と半分以上の12試合に登板し、4勝1敗1セーブ、防御率1.16という素晴らしい成績で、新人として初めて4月の月間MVPに輝いたのです。

 シーズン当初はセットアッパーでしたが、この年、途中から先発に回った佐々岡真司に代わってストッパーを任され、最終成績は54試合に登板し9勝6敗18セーブ、防御率2.87。5位に終わったチームの中で、一人気を吐く大活躍で、新人王を獲ってもおかしくない成績でした。

 ただこの1998年はルーキーの当たり年で、川上憲伸(中日)が14勝6敗、防御率2.57。高橋由伸(巨人)が打率3割、19本塁打。坪井智哉(阪神)が打率3割2分7厘と、新人王争いは非常にレベルが高く、結局新人王は小林ではなく川上が獲得することになったのです。

【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【小林幹英】
1974年1月29日生、新潟県出身。新潟明訓高-専大-プリンスホテル-広島(1998年ー2005年引退)。1997年ドラフト4位でカープに入団。プロ1年目の開幕戦でリリーフ登板し、セ・リーグでは9人目となる新人での開幕戦勝利投手になると、4月だけで4勝を挙げ、新人としては初めて4月の月間MVPを獲得した。1年目の成績は54試合に登板し9勝18セーブ。その活躍が認められ、セ・リーグ会長特別表彰を受賞した。2年目以降もリリーフとして活躍。現役引退後の2006年からは、カープで投手コーチとして若手育成に励んでいる。