『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

歴代2位となるJ1通算161得点など、数々の金字塔を打ち立てた佐藤寿人選手。

◆得点後に『阿波おどり』を披露したストライカー

 野球の背番号は、1番が投手、2番が捕手など、ポジションを示すものでもあるが、サッカーも同様だ。欧州と南米、さらに国によっても違いはあるものの、11番は左ウイングの番号とされており、プレーでは主にドリブルで突破してチャンスを作ることが期待される(左サイドハーフ、2トップの左サイドなどを示す場合もある)。

 1993年5月16日、サンフレッチェのJリーグ開幕戦で11番をつけたのは、FW盧廷潤(ノ・ジョンユン。当時の読みはノ・ジュンユン)。韓国籍Jリーガーのパイオニアで、スピードを生かしたドリブルが武器のプレースタイルは、11番にふさわしいものだった。

 94年にはサントリーシリーズ(ファーストステージ)優勝に貢献し、韓国代表としてもアメリカW杯でプレー。日本が出場できなかった世界最高峰の舞台に立つ姿を見て、筆者もうらやましく思ったものだ。現在も韓国籍の選手はJリーグの各クラブでプレーしており、開拓者という意味でも日本サッカー界に大きな影響を与えた。

 固定背番号制が始まった1997年には、笛真人が11番をつけている。サンフレッチェの前身のマツダSC時代に加入し、Jリーグ開幕後は徐々に出場機会を増やした。FWやサイドハーフでプレーし、主戦場は右サイドだったが、ドリブル突破が持ち味という点でウイングに近いスタイルだった。

 2000年からはMF藤本主税が11番をつけた。1999年にアビスパ福岡から完全移籍で加入し、プレーする位置はサイド主体ではなかったが、やはりウイングのごとく、切れ味鋭いドリブル突破を武器とするアタッカー。在籍中は2000年シドニー・オリンピックを目指すU-23代表や、2002年日韓W杯を目指すA代表でもプレーしている。

 山口県生まれだが、幼少期から徳島県で育ったこともあり、得点後のゴールパフォーマンスで『阿波おどり』を披露することで有名だった。阿波おどりには、手足を大きく動かす『男踊り』と、内股で、手や腕の動きが小さい『女踊り』がある。本人も当時「意識して使い分けている」と語っており、あらためて映像で見ると、確かに2パターンのパフォーマンスを見せていた。

 2003年から11番を託されたのはFW茂木弘人。聖光学院高(福島)から加入2年目で、J2で23試合に出場して5得点を挙げ、1年でのJ1復帰に貢献した。やはりウイングのごとく、爆発的なスピードを生かした突破力が武器で、サンフレッチェの後にプレーしたクラブではサイドバックでもプレーしている。