歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2005年、仙台から広島への移籍を決断した佐藤寿人(2005年)。移籍をきっかけに、日本を代表するストライカーへの階段を駆け上がっていった。

【第2回】吉田サッカー公園を見て「広島にお世話になります」

 3年くらい時間をかけてJ1復帰を目指す仙台の方針とは対照的に広島は、会って話をした織田さんから「来季は優勝争いをするための3カ年計画の2年目。勝負を懸けることに力を貸してほしい」と言われました。仙台とは違う方向性に刺激を受けたのを覚えています。

 ただ、そこから悩みに悩みました。妻に「残るわ」と告げた数時間後に「移籍しようかな」と言ったり。悩む中で、広島には市原時代に1度しか試合で行ったことがなかったので、街や練習環境を見せてほしいとお願いしました。

 広島市内から吉田サッカー公園まで、車で案内してもらったのですが、けっこう遠い(苦笑)。少しネガティブなイメージを持ち始めましたが、到着してあの青々とした芝生のグラウンドを見たら心が決まりました。この素晴らしい環境で練習すれば間違いなく上手くなれる。帰りの車中で、織田さんに「広島でお世話になります」と伝えました。

 仙台に加入するとき、子どもの頃から憧れていたカズさん(三浦知良)と同じ背番号11を希望して、2年間つけていました。ただ、広島で最初に打診された背番号は9番でした。当時、広島の11番は2年間、茂木弘人選手がつけていました。

 もう一人の憧れの存在であるフィリッポ・インザーギ(ユベントス、ACミランなどで活躍したイタリア代表のストライカー)が9番だったので、9番もいいかなと思っていましたが、最終的に11番になりました。このとき9番になっていたら、その後の印象もかなり変わっていたかもしれませんね。

 一方で加入1年目の2005年、シーズン序盤は苦しい時期を過ごしました。当時の移籍ルールは現在とは異なり、大まかに言うと、年齢が若い選手ほど移籍金が高くなる仕組みでした。この年の3月に23歳になった僕の移籍金は、約1億6000万円。広島が初めて日本人選手に移籍金を払って獲得する決断をしてくれて、現在でも日本人選手のクラブ史上最高額だそうですが、これがそのまま重圧となってのしかかりました。

 小野剛監督もいろいろ試行錯誤してくれましたが開幕前の練習試合では無得点。開幕後も2試合連続で先発し、3試合目からは控えとなって途中出場しましたが、6試合ノーゴール。続く2試合は負傷の影響でベンチからも外れてしまいました。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。