カープの4番・鈴木誠也(27)がポスティングシステムでのメジャー挑戦を表明した。6年連続打率3割・25本以上を記録したNPB屈指のスラッガーを巡って、メジャー複数球団による争奪戦が予想される。

2013年当時の鈴木誠也。プロ1年目の9月にプロ初安打をマークした。

 鈴木は二松学舎大付高から2012年ドラフト2位でカープに入団。ルーキーイヤーから一軍での出場機会を得ると、プロ4年目には「神ってる」活躍で大ブレイクし、25年ぶりの優勝に大きく貢献。その後は3連覇を果たしたチームの若き4番として打線を牽引し、侍ジャパンの4番としても活躍してきた。

 ここでは、日本を代表する打者へ成長するまでの鈴木のプロ9年間の軌跡を辿る。今回は2013年、プロ1年目に挑む直前の言葉を振り返っていく。

◆プロ1年目は内野手としてプレー

 鈴木は少年時代から知る人ぞ知る選手だった。小学校低学年のとき地元・東京の荒川リトルで野球人生をスタートさせると、中学時代はエース兼4番として荒川シニアを全国大会に導いた。小学生時代から通常の練習だけではなく父親と共に熱心に夜間練習も行うなど、当時から現在を思わせるストイックさを漂わせていた。

「父親がショートが好きだったので最初はショートで、小学生時代はずっとショートを守っていましたが、高学年になってからはピッチャーもやっていました。ショートを守っていたので、好きな選手は当時巨人の二岡智宏選手でした。中学時代はファーストとピッチャーですね」

 その後、鈴木は『強豪校を倒しての甲子園出場』を目指して二松学舎大付高に進学。1年時からレギュラーとして試合に出場し、秋からはエースナンバー1を背負い本格的に投手として頭角を表すこととなった。

「当初は怖いもの知らずで『投げてもバットに当てられる気がしない』という気持ちで強気でしたね。ただ。コントロールを意識するようになってから悩むことも多くなりました(苦笑)。すぐに試合に出られるという気持ちは全くありませんでしたし、(打撃に関しても)高校生の投手はすごいんだろうなと思っていました。でも、実際に対戦してみるとあまり中学時代と変わらないなという印象があって、案外打つこともできました」

 速球派投手として鳴らす一方で、打撃面も際立っていた。高校で積み重ねた本塁打は通算43本。甲子園は不出場、2年夏の都大会4強が最高成績だったものの、ドラフト前には複数の球団が注目するまでになっていた。

「高校時代からずっとプロを目指していましたし、プロしか考えていませんでした。(ドラフト当日は)関係者の方から『広島2位指名』という連絡があって、みんな喜んでくれました。下位指名だと思っていたので本当にビックリしましたし、頭が真っ白で実感が湧きませんでした」

 ちなみに鈴木は投手ではなく、尾形佳紀スカウトから打力と走力を高く評価され、内野手としての指名を受けた。春季キャンプから主にショートの練習を続け、泥まみれになりながら白球を追いかける毎日を送っていた。

「ショートは自分の中でカッコいいという思いがありますし、やりがいはあります。でも本格的に始めると難しいですね(苦笑)。いろいろな判断が要求されますし、頭も疲れます」

◆プロ1年目から一軍キャンプを経験

 プロ1年目となる2013年シーズン。当時から鈴木は大器の片鱗を見せていた。

 前田智徳がかつて背負った『背番号51』のユニホームに袖を通すと、春季キャンプ2日目に半日とはいえ早くも一軍の練習に帯同した。一日限定の参加だったとはいえ、野村謙二郎監督(当時)を筆頭に首脳陣から高い評価を受けていた。

「一軍は緊張感が全く違うなと思いました。練習に参加させていただいて、また一軍で練習したいと強く思いました。(プロに入って3カ月を迎え)体力的な面は問題ありませんが、一軍の投手が投げる球は(高校生とは)全然違うなということを実感しています」

 ルーキーながら大きな期待をかけられた鈴木は教育リーグに続き、ウエスタン・リーグ開幕戦でも9番・サードでスタメン出場を果たした。線は細かったものの、当時から野球センスは新人選手の中でも桁違いだった。

 結果的にプロ1年目は二軍で93試合に出場し、94安打を放った。9月にはプロ初の一軍昇格を果たし、巨人戦でプロ初安打もマーク。猛練習を重ねる日々の中で、着々とプロ野球選手としての階段を一歩一歩登っていた。

「何でもいいので『プロにいたんだ』という記録を残せる選手になりたいです。一番の大きな目標は野村(謙二郎・元)監督も達成された『トリプルスリー』です。また長い年数、プロとしてプレーしていきたいですね。僕と同じくプロに入ってから野手になった堂林(翔太)さんを目標にして、将来は一緒に三遊間を守りたいです」

 これはプロ入り3カ月後に鈴木が発したコメントだ。ルーキーイヤーの2013年、カープは16年ぶりとなるAクラス入りとなる3位となった。生まれ変わろうとするチームの中で、プロ野球選手としての歩みをスタートさせた。