歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2012年、森保一(左)が新しく監督に就任し、J1優勝への体制が整っていった。

【第8回】ミシャとの別れ。そしてポイチさんとの出会い

7回目から続く)
 ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(以下ミシャ)が2006年に広島に来たことで僕は大きく成長しました。それまでは攻撃の終着点でしかなかったのが、2つ、3つ前のプレーに顔を出してから終着点に行くことを学び、プレーの幅も広がりました。ミシャの下でサッカーをやっていなければ、もっと早く引退していたと思います。とても大きな出会いでした。

 ただ2011年頃には、いいサッカーをしているというだけでなく、より多くの勝利、タイトルで評価されたいと感じていました。だから何とかミシャと一緒にタイトルをと思っていましたが、リーグ戦は7位に終わり、自分自身も11得点と物足りない数字に終わりました。

 シーズン終盤、ミシャのシーズン終了後の退任が強化部の方から伝えられたとき、僕とトシ(青山敏弘)は大泣きして、椅子から立ち上がれませんでした。

 父のように慕っていたミシャと別れなければいけない。せめて最後の天皇杯でタイトルをと思いましたが、3回戦でJ2の愛媛FCにホームで敗れるという、苦い終わり方となってしまいました。

 2011年のシーズンオフは広島に来て初めて、自分が懐疑的に見られていると感じました。2012年3月で30歳になる年齢のことに加え、リーグでの得点も少しずつ減り、そろそろ厳しいのではという目で見られているかもと思っていました。

 事実、この年は自身のキャリアで初めての減俸提示を受けています。クラブの経営面からの判断だと言われましたが、選手全員が減俸提示ではなかったので、得点数が物足りないという評価もあったのではないかと思います。

 ポイチさん(森保一監督)が就任した2012年、キャプテンをやめようと思っていました。懐疑的に見られていることへの悔しさもありましたし、他のポジションの選手がいいという思いもあったので。でもポイチさんに伝えると「やるという選択肢を持っておいてほしい」と言われ、最終的にはキャンプで「やっぱり寿人にやってほしい」と指名されました。

 オフにチュンソン(李忠成)が移籍し、得点源が一つ失われていました。懐疑的な見方を感じた一方で、もう一度たくさんの得点を決めてほしいというクラブの期待も感じていました。それなら自分が、よりフィニッシャーとしての仕事にこだわり、その責任と向き合っていきたいと感じながらの開幕でした。

 新監督で戦うことへの不安もありましたが、ヨコさん(横内昭展ヘッドコーチ)や松本良一フィジカルコーチ、メディカルスタッフやフロントも含め、新監督を支えようという体制ができあがっていました。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。