1975年にリーグ初優勝を遂げてから、カープは年を追うごとに常勝軍団へと様変わりしていった。1980年には独走でペナントレースを制覇し、日本シリーズでも近鉄を破り2年連続での日本一を達成した。果たして投打共に円熟期を迎えた選手たちが展開する古葉野球とは、一体どのようなものだったのか。連覇時はプロ4年目ながら一軍を経験し、後に外野手としてレギュラーをつかむことになる山崎隆造氏が、その舞台裏を語る。

1976年にドラフト1位でカープに入団した山崎隆造氏。現役時代は髙橋慶彦に次ぐスイッチヒッターとして、カープの機動力野球を体現した。

 カープが初めて2年連続優勝を果たすことになる1980年、私はまだプロ4年目の22歳、いわゆる若手という位置付けでした。前年、24試合に出場し一軍定着への足がかりをつくっていた私は、レギュラー定着とはなりませんでしたが、主に二塁手として75試合に出場することができました。

 当時の私は出場試合数を伸ばしたとはいえ、同じポジションには木下富雄さんや三村敏之さんなどがおり、またそういった先輩方に野球選手としての実力で優っているという思いは全くありませんでした。もちろん単純な足の速さだけであれば勝っている部分もあったかもしれませんが、野球選手としてトータルで見た技術では全く追いついておらず、明らかに格下だったと思います。

 それだけに、私自身当時の古葉竹識監督に“起用してもらっている”という意識を持っていました。当然周囲は『あんな若造がなんで試合に出ているんだ』という思いもあったかもしれませんね。

 確かめたわけではありませんが、僕自身古葉監督に将来性を買ってもらっている意識は持っていました。髙橋慶彦さんとの1、2番コンビを確立してほしいという思いを感じましたし、思いに応えなければという意識を持って、がむしゃらにプレーしていました。