今から34年前、1986年のカープは前年度限りで退任した名将・古葉竹織監督の財産を継承した上で、長らくコーチとしてチームを支えてきた阿南準郎氏がチームを指揮。成熟した選手たちを巧みに起用し、見事に監督1年目でセ・リーグを制覇した。

カープがV5を達成した1986年シーズン限りで現役を引退した山本浩二氏。引退後は2度、監督に就任し1991年にはリーグ優勝を成し遂げた。

 V5を達成したこのシーズン、現役最終年となる不動の4番・山本浩二の前である3番として活躍したのが、一発長打が魅力の長内孝氏だった。長内氏はこのシーズン、小早川毅彦との一塁ポジション争いを繰り広げた末に3番に定着。安打、本塁打、打点のすべてでキャリアハイの数字を残す活躍を見せて、優勝に大きく貢献した。

 優勝を果たした当時のカープはどのような状況だったのか? 主に3番として活躍した長内氏に当時のチーム、さらにミスター赤ヘル・山本浩二氏への思いなど、さまざまな思い出と共に1986年のカープを振り返ってもらった。

◆レギュラーとしてのやりがいを感じた

 カープが5度目の優勝を達成した1986年は古葉竹識監督が退任し、阿南準郎監督が初めて指揮を執ったシーズンでした。私個人としては118試合に出場して初めて規定打席に到達したシーズンでした。監督が代わりましたがチームの雰囲気は変わることはなく、『古葉野球の継承』というテーマの中でチームは戦っていました。

 この年チームは開幕から幸先良く開幕ダッシュに成功し、私は主にクリーンアップである3番としてスタメン出場を続けていました。当時の私にとって最大のライバルは1984年に新人王を受賞した小早川毅彦でした。プライベートでは一緒に遊ぶこともある仲でしたが、グラウンドに立てばそれは別の話です。もちろん小早川が打てばそれだけチームが勝つ確率が高まるわけですが、やはり彼に負けたくないという思いは常に持っていました。

 1985年は古葉監督から『お前に3番を任せる』と言われていたにも関わらず、自分が不調に陥りレギュラーの座を明け渡していました。それだけにこの年はレギュラーの座を守っていこうと必死でした。ある程度数字を残せたことで、相手チームからの攻めも厳しくなってきましたが、レギュラーとして試合に出られていることにやりがいを感じながら、日々の試合を戦っていましたね。

 当時のカープ打線は1番・髙橋慶彦さん、2番・山崎隆造、3番に私が入り、4番・山本浩二さん、5番・衣笠祥雄さんと続いていました。1、2番がカープ伝統の機動力野球の象徴として機能し、そして後ろには偉大な強力スラッガーが構えていただけに、とにかく私は『後ろにつなごう』という意識だけで打席に臨んでいました。逆に言えば、『後ろにつなぎさえすれば、なんとかなる』と、そう思うことが自分の打撃にも良い影響をもたらしてくれたと思います。