カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 成功する可能性が高いのはどんな選手か。今回は、人生を背負うスカウトが、指名を決断する際、大切にしているポイントを、数々のエピソードと共に紹介する。

1999年ドラフト3位でカープに入団した栗原健太。スカウトの苑田氏によれば、高校時代から打撃センスの片鱗を見せていたという。

◆ 不満は口にするな。完全燃焼あるのみ

  「使ってくれない」という言葉が嫌いである。苑田は、自分が担当した選手には必ず入団前に伝えるようにしている。

「(首脳陣が)使ってくれないとは絶対言うな。(試合に)出してもらえるように自分からアピールしなさい。練習をしなさい」

 不平不満を口にするより、限られた野球人生を完全燃焼してほしいのである。誰もが大成功できる世界ではない。だからこそ、一人ひとりの選手に、全力でプロ野球生活を全うしてほしいと願い、選手がユニホームを脱ぐときには「一生懸命やりきった!」と思えるようでいてほしいのだ。

「納得してユニホームを脱いでほしいです。悔いがない人はいないでしょうが、悔いは少ないほうが良いです。(首脳陣が)使ってくれなかったからとは言ってほしくないです」

 NPBには、2001年から『12球団合同トライアウト』というシステムが導入されている。各球団を自由契約になった選手を対象に、合同の入団テストが行われるものである。このトライアウトから新天地を見つけ、『もうひと花』咲かせた選手も少なくない。

 苑田は、この制度をポジティブに見ている。

「正直、スカウトとして心が少し軽くなりました。自由契約になっても新たなチームが見つかる可能性もあるし、トライアウトでダメなら納得してユニホームを脱ぐこともできるでしょう

 プロ野球の世界に導いた者として、やはり、担当した選手のことはどこまでも気になるものである。チーム内で若手選手が成長すれば、頭の片隅では、整理対象候補の選手のことを思い浮かべるのが性なのかもしれない。

「スカウトとして、(プロ野球に)入れたら入れっぱなしではいけません。だからといって、野球の指導をする立場でもありません。それは現場のコーチの仕事です。選手のことは、やはり気になりますね」

 選手がプロ野球の世界を去るときは、その相談に乗ることもある。

「田舎に帰るなら、親孝行しろよ。そう伝えますね。広島に残るなら、何か手伝えることはないかと声をかけることもあります。引退後も、仕事が決まるまでは気になるものですよ」

 プロ野球の世界に残った者、会社員になった者、博多に焼き鳥の修業にいった者……さまざまなセカンドキャリアを目にしてきた。

「僕は一般的な就職活動をしたことがありませんから、なかなかアドバイスもできません。でも、親、兄弟、奥さんを大事にしてほしいとは必ず言います。特に、親は契約や調査で会っていますから、その気持ちは強いです」

 そもそも、『親孝行できる人は成功する可能性が高い』が苑田の持論である。その根拠がなかなか論理的である。

「親や兄弟を大事にする人はチームメートも大事にします。野球はチームスポーツなので、相手を考えればプレーの質は上がります。自分さえ良ければいいような人は、カバーリングやカットプレーを怠りがちです。そんな選手は、調子が悪くなると人のせいにします。長くはやれません。やはり、給料をもらったら親孝行するくらいの人のほうが伸びると思います」

 不満は口にせずプロ野球人生を完全燃焼する。野球をやらせてくれた親を大事にする。苑田は、現役時代に、これらを極めて高いレベルで全うした選手を見てきた。なかでも、苑田が入団した1年後にカープに入団してきた衣笠祥雄の存在は大きい。入団当初は故障やプロの壁に苦しみながらも、2215試合連続出場を果たし、国民栄誉賞も受賞した『鉄人』である。もちろん、苑田とは、1975年のカープ初優勝をともに勝ち取った仲間でもある。その猛練習ぶりは伝説にもなっている。

「衣笠は、朝から晩までその練習ぶりはすごかったです。根本陸夫コーチが寮に住んでいて、寮で深夜2時、3時まで、根本コーチと衣笠が練習をやっていたこともありました。あれだけバットが振れるということは、やはり下半身がしっかりしていたのだと思います」 その練習ぶりは強烈に印象に残っている。スイングの強さ、速さ、量、どれをとっても抜きん出ていた。

「ティー打撃を見ていても、衣笠や水谷(実雄)はすごかったです。根本コーチが言うのは、『10の力で振るところを、15の力で振りなさい』ということでした。その気持ちがないとダメなんですね」

 この時代は、山本浩二、衣笠、水谷、三村らが一気に台頭していた。根本はもちろん、広岡達朗、関根潤三ら名指導者の指導もあったが、選手らに猛烈な向上心があったことも事実である。

「練習したら上達します。しかも、自分からやっている練習はなおさらです。やらされている練習と自分でやっている練習は、見れば分かります」

 苑田自身も、色合いこそ違うが、濃い練習を行ってきた。何千本もバットを振るわけではないが、暗いところで投手を想定しながら、集中してバットを握る日々を送っていた。必ずしもフルスイングばかりをするわけではない。ボールを頭に描き、打ちにいって、スイングを止める。体はもちろん、頭のなかでも汗をかく練習であった。

 カープ初優勝の歴史をつくる猛者たちの歩みを見てきた。苑田自身も、そのど真ん中に身を置いていた。だからこそ、選手の本気度は見れば分かる。

「スカウトとして、練習態度と選手の目をチェックします。本当にやる気があるかどうかは、目に現れてきます」

 目には二通りあるという。監督に、俺を見てくれと訴える目、周囲に見られているから(練習を)やっておこうという目。本物を知っているだけに、その目の色を見抜くのは、難しいことではないのだろう。

 例えば、栗原健太である。苑田は、日大山形高の上級生の投手を視察するため、グラウンドに足を運んでいた。そのとき、目に留まったのが、当時高校2年生の栗原だった。思わず、苑田は日大山形高の関係者に呟いた。

 「これは、すごいですねぇ」

 苑田は当時を、つい最近のことのように覚えている。

 「『巡り会ったなぁ』そんな気持ちでした。投手を見ていても、ついつい目は栗原に向きました。バットが内から出る。バットにボールを乗せて打てる。だから、打球に飛距離が出る。こういう人はなかなか出てきません。江藤(智)もそうでしたが、これは天性でしょうね」

 ただ、技術の分析だけで選手に『惚れる』苑田ではない。

「彼の目です。目が泳ぎません。走っておけと言ったら、一日中走っているようなタイプですよ。こんな選手はなかなかいません」

 苑田が探し求めるのは、厳しいプロ野球の世界で『完全燃焼』できる人間である。そういう男が、野球界で成功を収める可能性は高い。仮に野球で成功できなくても、その後の人生で何かをやり遂げる可能性は高い。

「ちょっと調子が良いときに、その気になった人間は、だいたいダメになります。調子が良いときでも、初心を忘れずにやれる人間は、どんな仕事をやっても成功することが多いと思います」

 東京・代官山の「2‐3Cafe Dining(ツースリーカフェ ダイニング)」でオーナーを務める男がいる。1990年にドラフト5位でカープに入団した速球派投手・小林敦司である。1999年には一軍で30試合に登板したが、プロ通算1勝。プロ野球で大成功を収めることはできなかった。

 彼もまた、苑田が担当した選手であった。しなやかな投球フォームと腕の振りに惚れ込み、獲得に踏み切ったが、一軍定着も叶わず、移籍先のロッテでユニホームを脱いだ。

 引退後、小林は和食店を営んでいた父の影響もあり、料理の道に進んだ。目指したのは、パティシエである。

「包丁を使ったこともなかったですし、ゴムベラなんてね。ケーキのことは全く分からなくて、年下の女性に交じって修業をしました。怒られもしましたが、できるようになるしかないので毎日毎日、努力をしました(小林)」

 そんな小林と再会する機会があった。元・野球選手が丁寧につくったクリームチーズケーキを72歳の苑田がフォークで口に運ぶ。そのとき、ベテランスカウトの目には涙が浮かんでいた。

「本当に美味しい……。体を大事にね……。良い雰囲気の店だし、これを続けてほしいですね」

 涙を拭いながら、小林に語りかけた。そして、この店を妻と再び訪ねることを約束して、苑田は店を後にした。

 スカウトはひとりの青年の人生を背負っている。だからこそ、本当に完全燃焼できる人間をプロ野球の世界に導かねばならない。そんな男なら、野球界で成功する可能性は高い。もしユニホームを脱ぐことになっても、人生で何かしらの成功や幸せを掴み取れるはずである。そんな『目』を探して、苑田は今日も日本全国を歩き回るのである。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。