1996年、三村カープは序盤から独走し、優勝へと突き進んでいた。しかし主力選手の離脱などもあり、ライバル・巨人に逆転優勝を許した。あれから23年。大野豊氏の胸には今も、あの悔しさが残っている。

96年、私は40歳で開幕投手を務めたのですが、かなり早い時期から開幕投手の打診を受けていました。しかし監督を務めていた三村敏之さんに「僕が開幕投手を務めているようでは、チームは強くなりませんよ」と話をさせてもらうなど、一度は断っていました。

何故かと言うと、当時私はプロ20年目でしたが、『やはり開幕投手というのは、投手陣の中心となる投手が投げるべきだ』と思っていたからです。三村さんからは「もちろん勝ってくれるのが一番だけど、万が一負けてもお前ならチームも選手もファンも納得してくれるんじゃないか」と言われました。そのように説得され、開幕投手としてスタートすることになりました。

この年に関しては春先から首位を独走していただけに、『優勝できる雰囲気』を感じましたし、『今年はいけるかも』という思いがありました。

しかし7月9日の巨人戦(札幌・円山球場)をきっかけに雰囲気が変わってきました。あの試合、私はチームに帯同していませんでしたが、やはりあの試合での大敗がターニングポイントになったと言わざるを得ません。

先発だった紀藤(真琴)を責めるわけにはいきませんが、振り返ってみると、ここで大敗したことでカープは勢いを削がれ、逆に巨人は勢いを増していきました。

6月途中には巨人に11.5ゲームの大差をつけていましたが、やはり我々の頭の中には『巨人は強いチームだ』という印象が常にありました。それだけに『いずれは差を埋めてくるだろうし、巨人とはいくらでも差をつけておいた方が良いだろう』と考えていました。

しかし、まさかそれをひっくり返されるとは思ってもみませんでした。そのゲーム差を抜きにしても、チーム状態が上がってくるチームと、下がってくるチームの差が現れてきたシーズンだったと思います。


(広島アスリートマガジン2019年5月号から一部抜粋・続きは本誌にて掲載)


▼ 大野 豊(おおのゆたか)
1955年8月30日生、島根県出身。
77年にテストを経てドラフト外で広島に入団。中継ぎとして頭角を現し、79~80年の連覇に貢献。先発に転向後は88年に沢村賞を受賞。91年には守護神として優勝に貢献し最優秀防御率に輝く。96年当時は先発に再転向し、40歳で開幕投手を務めたが故障もあり不本意なシーズンとなった。97年には42歳で最優秀防御率を獲得し、98年限りで現役引退。その後は広島で投手コーチも務めた。