1950年、それまで1リーグ制だったプロ野球は、セントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグ制に移行した。以来、多くの名投手たちが『ノーヒットノーラン』の記録を球史に刻んできたが、この偉業を三度にわたって達成したのは外木場義郎ただ一人だ(2リーグ制以前には沢村栄治が達成)。
今回は、野球殿堂入りも果たしたレジェンド右腕が、ノーヒットノーランで飾ったプロ初勝利を振り返るインタビューを再編集して掲載。のちに外木場氏の代名詞ともなるセリフはなぜ生まれたのか。その裏側に迫った。
(『広島アスリートマガジン』2008年掲載記事を再編集。表現・表記は掲載当時のまま)
◆「もう1回やりましょうか」その一言が一人歩きをして……
私は東京五輪が行われた、1964年の途中にカープに入団しました。当時のカープはあまり強くなかったのですが、いざ入ってみると良いピッチャーばかりで、プロの世界でやっていくことは厳しいなと感じたことを覚えています。
そんな私が第一線で活躍するようになったのは、1968年に監督に就任された根本陸夫さんのお陰です。根本さんが私を育てて、先発として使ってくれたのです。
もちろんそれまでも努力はしてきましたが、使ってもらえるということで、それだけのものを発揮しなければいけないという気持ちでプレーしました。根本さんが監督をされた初年度に完全試合、監督最終年となる1972年にはノーヒットノーランを達成でき、何か縁のようなものを感じています。
広島市民球場ではありませんが、プロ初勝利がノーヒットノーランでした。その際に「何ならもう1回やりましょうか」という私のコメントが一人歩きしていたようですが、あの発言には理由があったんです。
当時は今と違ってマスコミの数が少なかった時代。彼らとの話の中で「こういった記録をつくった人は短命に終わる選手が多い」と、ある記者が口にしたので、「何ならもう1回やりましょうか」とポロっと出てしまったんですよ。それが大きく伝わってしまったようです。
ただ、結果的にその後に2回やるわけですから不思議なものですよね(笑)。広島市民球場での思い出も、個人的なものでいえば、完全試合やノーヒットノーランになりますね。他の球団にいたら記録達成できたかどうかは分かりませんから。

