広島の高校野球を語る上で欠かせない兄弟がいる。迫田穆成・守昭の「迫田兄弟」だ。

 兄・穆成は広島商(以下、広商)の主将として同校4度目の全国制覇(1957年)し、さらに監督としても広島商で全国制覇(1973年)を果たすなど、広島商と如水館で甲子園出場14回を誇る。

広島商業、広島新庄の監督として甲子園通算6回出場を果たした迫田守昭氏。

 一方で弟の守昭も監督として三菱重工広島を中国勢としていまだ唯一の都市対抗優勝(1979年)に導き、広島商と広島新庄の監督としても甲子園通算6回の出場を果たしている。チームを勝利に導く手腕はもちろんのこと、選手育成にも長けており、数々のプロ野球選手を輩出してきた。

 この4回の連載では「迫田兄弟」の弟・守昭氏が「名将」と呼ばれるまでの軌跡と選手およびチーム育成術、そして77歳にして新たな挑戦を始める抱負を聞いた。

◆現役時代の実績はほぼ無く

 野球を始めたのは、やはり6歳上の兄の影響だった。遊びで野球を楽しんでいた小学6年生の夏、兄が優勝旗を広島に持ち帰ると「お祭り騒ぎどころじゃない大騒動でした」と振り返る熱狂を体感。「自分も広商に行って野球をするんだと思いましたね」と、中学から野球部に入った。

 中学までは外野手。広商に入ってから、50人ほどいた入部者の約8割が退部して捕手を務められる人間が誰もいなくなり、捕手に転向。正捕手とはなったが「広商が勝てない時代の真っただ中」と振り返るように県大会8強進出が最高成績。一浪の末に、慶大に進学した。長男の穆成は稼業の洋服屋を継ぐために修行に出かけたが弟2人(※守昭は三男)には「お前らは自分の道を進め」と大学進学を促した。

 慶大では主にブルペン捕手で公式戦の出場は新人戦のみだったが、強化を進めようとする段階で当時はあまり強くなかった地元・広島の三菱重工広島に入社し野球ができるようになった。そこでも現役は4年ほどで引退し、26歳の若さでコーチに就任した。

 実は慶大時代も学生コーチ的役割を担っており、監督から「今、このピッチャーの調子はどうだ?」「ピッチャーはどっちがいい?」と確認されるほどだった。社会人野球でもそうした指導者としての資質を買われており、試合にこそ出られていたが「社会人野球で私が出るようじゃ勝てない。私が全く出られなくなった方がチームは強くなるだろうと思っていました」と振り返る。

 大きな仕事のひとつとして託されたのは選手のリクルートだ。「お前なら人脈もあるだろう」と期待された。

 当時は都市対抗に出場すらできておらず「何でお前らのところがこんな良い選手を獲りに来るんだ」と嘲笑されることもあったが、恥ずかしげもなく東京六大学、関西六大学、東都大学などから一流の選手を獲りに行った。

 すると兄の指導のもとで広商の全国制覇に貢献した金光興二が法政大4年時に、プロ野球・近鉄のドラフト1位指名を蹴って入社してくれるなど一流の選手が集まるようになった。

 その後、1976年に三菱重工広島の監督に就任。監督3年目の1979年に都市対抗で初出場・初優勝を果たすわけだが、「選手自身の力があったことが一番の要因」と語っている。そして社会人野球の監督に就任以降、予選に勝てず後楽園(当時、都市対抗が行われていた球場(現東京ドーム))への出場すら叶わなかったにもかかわらず「目標は都市対抗で優勝することだ」と選手に常々語りかけていたことで、最後まで気持ちを緩めることなく戦えたのだという。

 会社に「これだけ良い選手を集められても勝てないのは采配のせいでは?」との疑念を持たれていた3年目での会心の優勝だった。その後は監督の座に執着することなく翌年には退任。チームの廃部危機の際に一度監督復帰し、1985年に都市対抗4強へ導いたが、そのすぐ後に再び退任した。

 その後は会社員として60歳の定年まで働き続けた。高校野球の指導者に転身するのは、ここからだ。(第2回につづく)