毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。10月11日の開催まで1カ月を切った。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。そんなドラフトにまつわる数々のエピソードの中で、ここでは嶋重宣の獲得にまつわる話を、カープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏へのインタビューをもとにお送りしよう(2021年掲載記事を再編集)。

打者転向から5年目となるプロ10年目の2004年、首位打者と最多安打を獲得した嶋重宣。「赤ゴジラ」の相性で注目を浴びた。

嶋は超高校級左腕として注目され、1994年ドラフト2位でカープに入団。同期には山内泰幸(1位)、朝山東洋(3位)、高橋健(4位)、横山竜士(5位)らがいる。投手として入団するも、プロ5年目に打者に転向。一軍で結果を残せない日々が続いたが、2004年にレギュラーを奪取すると打率.337、189安打、32本塁打の成績を残し、首位打者、最多安打、ベストナインを獲得。打者として成功を収めた。

 カープが低迷した時代に印象的な活躍を見せた嶋。後の「赤ゴジラ」獲得の経緯に迫っていく。

◆「江夏2世」と呼ばれた高校時代

 嶋は2004年から背番号が「00」から「55」に変わりましたが、投手として入団した当初は「34」でした。

 彼がドラフトで指名される直前の1994年の秋、カープ選手初のFA宣言で巨人へと移籍した川口和久(元カープなど)から受け継いだ番号です。左投手としてのこの番号は、400勝を達成した金田正一(元巨人など)の背番号という特別な意味もあります。

 前年まで左のエースが着けていたその番号をもらう事からわかるように、嶋は「江夏2世」と称された期待の豪腕サウスポーでした。

 埼玉県の出身ながら、高校から遠く離れた仙台市の東北高に野球留学しています。高3の春にはエース・4番で甲子園に出場しました。この年のドラフトでは、逆指名で入団した地元東広島市出身の山内泰幸(元カープ)を公式戦開幕前から1位指名する事に決めていたので、嶋など2位以下の選手の獲得に時間をかける事ができたというのもあったかも知れません。3位の朝山東洋(現カープ一軍打撃コーチ)、4位の高橋建(現阪神二軍投手コーチ)、5位の横山竜士(現カープ一軍投手コーチ)といった同期入団の選手も、一軍で活躍する事ができました。

 嶋は全日本チームが仙台でキューバと試合を行った際、高校生から秋田経法大附高の小野仁(元巨人など)と共に東北を代表する両サウスポーとして選ばれました。当時担当した苑田スカウトは嶋の存在を早くからキャッチしており、私も彼を見に仙台まで行きました。その時に最高球速147kmをマークしていました。とにかく球が速くて、粗削りではありましたがコントロールも十分あったという印象がありました。

 高校通算で30本以上のホームランを打つなど、嶋は投球だけでなく打撃でも各球団のスカウトから注目され、野手として指名しようとした球団も多かったと聞いています。しかし我々カープスカウトは、彼の投手としての素質を他のどの球団よりも高く評価し、嶋自身も「投手としてやりたい」という気持ちが大変強かった事もあって、ほぼ相思相愛での獲得となりました。

 結果的に2位での単独指名でしたが、投手にしろ野手にしろ、1位で他の球団が指名してもおかしくない逸材でした。初めて話をした指名後のあいさつの時の印象は、「非常に気の強い子だな。プロ入りに対して相当自信を持っているようだ」という感じでした。

 礼儀正しく、人当たりも良いのですが、自分の趣味や夢をしっかりハキハキと話す部分にそう感じました。特に高校から入ってくる新人選手はおとなしくて声が小さかったりする子が多いのですが、彼の場合は全然違っていましたね。

●備前喜夫(びぜんよしお)
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。