1975年に悲願のリーグ初優勝を果たしたカープが、4年の時を経て再び優勝戦線に戻ってきた。初優勝以降は個々の輝きは目立つものの、チーム全体ではやや失速。とはいえ根本陸夫監督や古葉竹識監督のもとで鍛え上げられた若手選手たちの力は、すでに球界屈指のレベルにまで達し、充実期を迎えていた。1979年のカープは開幕ダッシュには失敗したものの、中盤以降はベテランと若手が噛み合い首位の座を奪取。かつてリーグのお荷物、万年Bクラスと揶揄されたチームは、このシーズンを境に常勝チームへと生まれ変わり、黄金時代を築き上げていった。ここでは、V2、初の日本一を達成した1979年のカープを改めて振り返る。

1979年11月4日、近鉄との日本シリーズを4勝3敗で制し、悲願の日本一を達成したカープ。10月6日のリーグ優勝に続いて、再び古葉竹識監督が宙に舞った。

 1975年の歓喜の初優勝から4年。Ⅴ奪還を旗印に、古葉竹識監督の就任5年目シーズンがスタートした。「結果が出なければ辞任」。初優勝以降の3年間は3位、5位、3位と低迷していただけに、1979年は監督としても覚悟を決めてのシーズンだった。

 ところがチームは監督の意に反してスタートダッシュに失敗する。開幕からいきなり4連敗を喫すると、その後も調子が上向かず前半戦の大半はBクラスが定位置に。巻き返し可能なゲーム差だったとはいえ、夏前までは団子状態から抜け出すほどの勢いを見せることができなかった。

 その一つの要因となったのが衣笠祥雄の打撃不振である。5月27日の時点で打率が2割を切るなど、なかなか浮上の兆しは見られなかった。そこで監督がチーム状態を上げるために決断したのは、連続フルイニング出場を続けていた衣笠のスタメン外し。日本記録まであと22試合と迫っていたが、個人記録よりもチームの勝利が最優先だった。

 しかし、この荒療治が衣笠自身、そしてチームにも好影響を及ぼした。33試合連続安打の日本記録を樹立した髙橋慶彦を筆頭に各選手の状態が上向くと、チーム成績も急上昇。7月下旬には3年ぶりとなる2位に浮上した。

 8月に入ると勢いはさらに加速し、首位・中日を完全に射程圏内に捉えた。中旬の首位攻防戦で連勝しゲーム差なしとすると、直後の大洋戦にも勝利し4年ぶりに首位の座を奪取。そこからは、まさにカープの独壇場だった。