2024年シーズン限りで、惜しまれつつ現役を引退した野村祐輔。2016年からのリーグ3連覇時、同学年の野村と共にチームの主力として活躍した安部友裕氏は、野村と生年月日、生まれた病院も一緒という不思議な縁を持つ。『戦友』であり『親友』でもある野村へ、安部氏が改めて感謝の気持ちを語った。
◆「もう、やるしかないじゃん」。心に残る“親友〟との会話
祐輔は同じ1989年生まれの同学年ですし、ずっと何でも言い合える仲です。いろんなところで話題にしていただいていますが、彼とは不思議な縁があり、生年月日も生まれた病院も同じなんです。
彼が入団してまもなく、一緒に買い物に行く機会があったのですが、その際「俺たち誕生日が一緒だよな」という話になり、「俺は北九州で生まれたんだ」と言うと、祐輔も母親が北九州出身で、里帰り出産していて、生まれが北九州で岡山育ちと聞きました。それでお互いに親に電話して聞いてみると……同じ産婦人科という事がわかったんです。ちなみに、生まれた時間も1時間くらいしか変わらなくて……(笑)。数年後に入団した時期は違えど、プロ野球選手として同じチームでプレーするなんて、本当に彼とは縁を感じますよね。
今年の状況も見ても、祐輔としても苦しいシーズンだったと思いますし、一軍で投げる機会が少ない中で、『どうなるんだろう』と思っていましたが……寂しいですよね。引退を知った後、僕は由宇練習場での最終戦にプライベートで行かせていただきました。祐輔はとても驚いていました。「どしたん!?」と言われたので「お前に会いに来たんよ!」と言うとうれしそうにしていたことを覚えています。
「お疲れさんやったね。自分で決めたん?」と聞くと、「自分で決めた」と。僕は「そうか」と言ってそれ以上は聞きませんでした。本当に清々しい顔していて、決断してスッキリしたんだろうなと感じました。
祐輔との思い出で忘れられないのが、2022年、僕の現役最終年のことです。春先、僕も彼も二軍にいて、大野尞の室内練習場でストレッチ中に話をしました。
祐輔に「こっから俺らどうやってアピールしていく?」という話をした時に、「いや、もうやるしかないじゃん」と一言でした。「いや、そうやけど……」と思いましたが、改めて考えると、その一言に全てが凝縮されていたんだと感じました。どういう結果、どういう境遇になろうと、自分では変えられない部分があります。自分がやるべきことをやるしかないと思うのと、やるべきことをやっていたら、何かしら今後結果がついてくると思います。僕も彼のおかげで、最後に「よし、自分のやることに全うしよう。自分のできることを全うしよう。自分がコントロールできることを全うしよう」という気持ちにさせてくれました。
結果的に一軍には上がれませんでしたが、「なんで上がれないのか?」とは思いませんでした。上がれるまで自分のスキルを磨き続ける中で、後輩や近い世代の選手が一軍に上がったとしても、「頑張ってこいよ。絶対に見返してこいよ」と心から思えていたんです。割り切れたという意味では、祐輔が、良い意味で僕にとどめをさしてくれたのだと思っていますし、心に響くやり取りでした。
思い出はあり過ぎますが、やはり2026年からの3連覇を一緒に経験できたことは思い出深いです。同学年に菊池(涼介)、田中(広輔)、丸(佳浩)がいて、祐輔が先発して、5人がスタメンで……「同級生がこんなおるんやな」という話をよくしていました。
センターラインに野村、田中、菊池、丸の4人がいて、僕はサード、という試合も多くありましたが、『1989年世代中心で戦っているな』という気持ちもありました。ちなみに祐輔は青いグローブを使っていましたが、僕は青いレガースをつけていて「俺のパクんなよ」「いや、俺が最初やろ!」みたいな、他愛のない会話をしていたことも懐かしいですね。
僕にとって野村祐輔という人間は……なかなか同級生で、これだけの共通点を持ってる人はいません。一緒の時に活躍できて、本当に高め合えた戦友、盟友、親友ですね。僕は勝手に大親友と思ってます。彼は思ってないでしょうけどね(笑)。
今、彼に伝えたいのは「13年間お疲れ様」というよりも、「13年間本当にありがとう」という思いです。一緒に野球をやってきて、カープで共にプレーしたのは11年だったのですが、その間本当にありがとうという気持ちだけです。長く先発投手を全うすることは本当に体力が必要ですし、調整も難しく、いろんなことがありながらもチームを支えてくれたと思うので、『ありがとう』という気持ちですよね。またこれからも携わることが多いと思うので……『これからもよろしく!』という言葉も贈りたいです。