『精密機械』と称されるコントロールでカープ投手王国のエースとして活躍した北別府学氏(1957年7月12日〜2023年6月16日)。鹿児島で生まれ育った北別府氏は1975年ドラフト1位でカープに入団すると、最多勝利2回、最優秀防御率1回、最高勝率3回、沢村栄治賞2回……と、数々のタイトルを獲得した。

 果たして、カープが誇る『精密機械』はどのようにして誕生したのか。かつて北別府氏が語った、少年時代のエピソードを再編集して掲載する。

(『広島アスリートマガジン』2005年12月号掲載記事を再編集)

現役引退後は野球解説者としても活躍。多くのカープファンから愛された北別府学氏

◆自転車で1時間をかけ通学。甲子園への思いに突き動かされた高校時代

 宮崎県との県境にある鹿児島県曽於郡末吉町で、私は男ばかりの3人兄弟の末っ子に生まれた。

 実家を始め周囲は農家が多く、収穫が終わった田やサツマイモ畑で子供達が野球のようなボール遊びをよくやっていた。当時私が住んでいた町には、リトルリーグも少年軟式野球チームもなかった。しかし小学6年生と父兄が混じっての地区別ソフトボール大会が行われるなど、かなり野球好きな土地柄だったのではないかと思う。

 1970年に、末吉町立南之郷中学校に入学した。私としては最初から野球部に入りたかったのだが、日没後も続く野球部の猛練習で「勉強に影響が出る」と母が反対したので、3つ上の次兄が所属した軟式庭球部に入部した。ただ球拾いをしている時でも野球部の練習はずっと見ていたし、家に帰ると兄とキャッチボールをしていた。

 そのうちどうしても野球がやりたくなって、私は中学1年生の6月には軟式庭球部を退部し、夏休みに入った8月初めから野球部に転部し、本格的に野球を始めることになった。

 入部してすぐに、3年生が引退して新チームとなった。最初のポジションはピッチャーではなくてファーストやサードだったが、2学期が終わろうとする頃に、監督から「ピッチャーをやってみろ」と言われた。監督から言われる少し前に中学校内のクラスマッチで野球を行ったのだが、私がピッチャーを務めた我がクラスは1年生でありながら体力的に勝る2、3年の上級生を含めた10クラスで準優勝した事があった。恐らく監督はそれを見ていたのだと思う。