現在のカープを支える主力選手たちは、どのようなルーキーイヤーを過ごしていたのか。本企画では、それぞれの選手たちがプロ1年目に語っていた言葉から、その想いに迫っていく。

 今回ピックアップするのは、プロ11年目の昨シーズン、見事な復活劇をみせた堂林翔太。同年ドラフト1位の今村猛と共に大きな期待をかけられていたスラッガー候補のプロ1年目は、どのようなシーズンだったのだろうか?

2009年ドラフト2位で入団した堂林翔太選手。プロ1年目は二軍で野手としての経験を積み、スラッガーへの道を歩んでいった。

◆悔しさにまみれたプロ1年目

 野村謙二郎監督の就任1年目。中京大中京高から、2009年ドラフト2位でカープに入団した堂林翔太。高校3年で出場した夏の甲子園では、エース兼4番として全国制覇に貢献。ドラフト1位で今村猛の獲得に成功したことから、春夏の甲子園優勝投手のダブル指名として、当時大きな話題となった。

 堂林に期待されたのは、投手ではなく、スラッガーとしての活躍。野球ファンの間では“プリンス”の愛称で親しまれ甲子園を沸かせた球児は、次代のカープの中心選手として期待を背負い、プロ生活をスタートした。

 入団1年目。ウエスタン・リーグでの初スタメンで猛打賞を記録した堂林は、4月4日の阪神戦で一軍経験もある福原忍(現阪神一軍投手コーチ)からプロ入り初ホームラン。続く2戦目でも2号本塁打を放ち、いきなり大物の片鱗をみせた。

「1年目は全然通用しないと思っていたのですが、初めて打席に立ったときは、正直大きなギャップは感じませんでした。だから何度か打席に立てば慣れてくるだろうなと」

 しかし、好調は長くは続かなかった。シーズン序盤は快調に飛ばすも、相手球団のマークが厳しくなると、結果の出ない日々が続くことになった。

「これだけ打てないのは初めてでした。本当だったら思いっきり感情を爆発させたいですし、悔しくてバットを折りたいという気持ちも正直あります。けど、ずっと使ってもらっているというのもありますし、1年目ですから……。東洋さん(朝山・当時二軍打撃コーチ)からは『1年目なんかは打てなくて当たり前だ』と言ってもらっていましたが、そう言われても悔しかったですね」

 将来のカープを背負う期待をかけられた高卒野手。首脳陣の期待は大きく、たとえ結果が残せなくても、常時スタメンで起用され続けた。当然プレッシャーとの戦いもあったが、堂林の心は折れることはなかった。いくつ三振を重ねても積極性を失わずに、自分のスイングを貫き通した。

「『昨日打てなければ今日打てればいい。今日打てなければ明日打てばいい』と、いつも監督さん(当時山崎隆造二軍監督)が毎試合リセットするようにと言ってくれているので、気持ちを切り替えて試合に臨むようにしています。また、打席の中で消極的にならないように意識しています。振ってみなければ分からないし、バットが出てこなかったら終わり。高校からずっとそうやって教えられてきたので、それだけはやるようにしていました」

 二軍で試合に出場を重ね、7月のオールスター期間中には一軍練習にも参加。7月下旬には生きた教材としてケガで調整中の栗原健太とともにプレーする機会もあった。プロでの経験すべてが堂林を成長させるきっかけとなっていった。

「一軍の練習の最終日に野村監督から『いまの二軍の結果では一軍では通用しないから、しっかり結果を残してくれ」と言われたので、改めて結果が全ての世界なんだなというのを感じました。自分でも今のままでは通用しないと思っていますし、今は二軍で安定した結果を残せるようにやっていかなくちゃいけないと思っています」

 プロ1年目、堂林は、リーグダントツの三振数を喫したが、二軍ではあるものの7本塁打を記録。7月に開催されたフレッシュオールスターでは豪快な本塁打も放った。一軍昇格はならなかったが、スラッガーとしての潜在能力の高さを感じさせるシーズンとなった。

 その後、堂林がブレイクを果たすのはプロ3年目の2012年のこと。この年まで、一軍未経験ながらチームでただひとり全試合に出場し、本塁打はチーム最多の14本を記録。シーズンオフには野村監督が現役時代に背負っていた背番号「7」を譲り受け、名実ともに“カープの顔”へと階段を上がっていった。