夏の甲子園を目指し、全国で県大会が開催され高校野球が盛り上がりを見せるなか、かつて広島県の高校球児としてプレーをした、カープ新井貴浩監督に当時の思い出を語ってもらった(過去の掲載記事を再編集)。

 広島県高校野球界で“県工”の愛称で知られる新井監督の母校、県立広島工業高校は春のセンバツ5回、夏の甲子園5回出場を誇る。1992年〜1995年に在籍し甲子園出場こそ叶わなかったが、2年秋からの新チームではキャプテンを務めるなど、中心選手として高校野球生活を過ごしていた。

写真は高校時代の新井氏(後列左から2番目)。最後の夏は4回戦で敗戦したものの、優勝候補の広陵に勝利した。

◆広陵に勝ったことがハイライト

 新チームになって自分たちの代での、優勝候補は同学年の二岡智宏(元巨人など)、福原忍(元阪神)がいた広陵です。『甲子園でも優勝するのでは?』と言われるほどの評価でした。高校時代、個人的に一番印象に残っているのが、最後の夏の3回戦でその広陵と対戦した試合です。実は頻繁に練習試合をしたこともなく、僕にとっては最初で最後の対戦であり、高校時代の試合ではハイライトですね。

 試合前から「100%広陵が勝つだろう」という雰囲気でしたし、それを僕たちも感じていました。でも僕たちは勝手に盛り上がっていて、「よし! やったるで!」と意気揚々でした。すごくモチベーションが上がっていただけに、緊張感もなく「勝って周りを驚かしてやる!」と思っていました。結果的に4対3で勝てましたが、その瞬間はもちろんうれしかったですし、少しだけ、甲子園がチラつきましたよね(笑)。あの広陵に勝ったわけですから。

 その後は4回戦で西条農業と対戦して4対5で負けてしまい、ここで僕の高校野球生活は終わりました。負けた瞬間「これで本当に終わってしまうのか」と信じたくない気持ちでしたし、チームメートはみんな泣いていました。ですが自分は主将だったので、「泣いちゃダメだ!」と我慢していました。

 試合後、県工に帰って最後のミーティングをしたんですが、そこで僕が挨拶をするときに、耐えきれずに泣いてしまいました。3年間の思い出を走馬灯のように思い出し、『この仲間ともう野球ができないのか』と思うと、涙を堪えることはできなかったですね。

 高校野球は一生に一度の経験ですが、一番得たものを挙げるならば、やっぱり仲間です。苦しい練習をともに乗り切った仲間は特別な存在ですし、コロナ禍になる前までは毎年みんなで集まっていました。一生の友達ですよね。