◆攻守両面でチームの大黒柱として活躍

 1970年シーズン限りでプロ生活にピリオドを打った山内から『8』を譲り受け、結果的に最後の持ち主となったのが、1971年に3シーズン目を迎えた“ミスター赤ヘル”山本浩二だ。田淵幸一、星野仙一、山田久志、東尾修らと同じ1969年にドラフト1位で入団し、“花の44年組”ともてはやされた。他のルーキーたちに比べると開花までに若干の時間を要したものの、衣笠祥雄に代わって4番に定着した1975年以降は飛躍的な成長を見せた。

 この年に中日の井上弘昭と最後まで首位打者を争って競り勝ち、チームを悲願の初優勝に導く立役者となった。2年後の1977年には44本塁打を放ち、翌1978年にも44本塁打で初の本塁打王を獲得。前年に50本塁打を放っていた王貞治を退けての快挙であった。

 以後、1979年から3年連続で打点王。1980年と1981年には本塁打と打点の2冠王。1983年も本塁打王に輝いた。打撃のみでなく、キャリアを通してダイヤモンド・グラブ賞(ゴールデン・グラブ賞)を10回獲得した守備も光り、攻守両面でチームの大黒柱として活躍した。歴代4位の536本塁打、同14位の2339安打という輝かしい記録を残し、リーグ優勝を果たした1986年シーズン限りで現役を引退。球団はその功績を称え、背番号『8』を永久欠番に指定した。

 その後は2001年、2度目の監督就任の際に背番号『8』も復活。2005年の辞任を最後に、この偉大な番号は再び眠りについた。カープの『8』は、これからもずっと山本浩二の伝説と共に語り継がれていくことだろう。

【背番号『8』を背負った主なカープ選手】
大和田明(外野手/1958年-1967年)
山内一弘(外野手/1968年-1970年)
山本浩二(外野手/1971年-1986年)
※1986年10月27日、永久欠番に制定。