背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

癌を告白した山本浩二氏だが、闘病のすえ昨年のカープ春季キャンプを訪問。佐々岡監督らとも談笑するなど元気な姿を見せた。

 今回のテーマは背番号『8』。カープの歴史で初めて永久欠番となったのが、この8番だ。改めて、その歴史を紐解いていこう。

“山本浩二以前”の背番号『8』というと、最初に定着したのは1951年から1957年にかけての長持栄吉。長持の引退で1958年から引き継いだのが、同年に西鉄から金銭トレードで入団した大和田明だ。

 大和田は西鉄で伸び悩んでいた時に行きつけのスナックで当時のカープ監督・白石勝巳と出会ったのがきっかけでトレードに至り、以後は酒も煙草も断って活躍したというエピソードがある。1959年にはサイクルヒットも達成し、当時の球団記録である23本塁打を放ってベストナインにも選出された。

 1967年まで『8』を背負った大和田が南海に移籍すると、その後釜に座ったのが阪神から移籍した山内一弘だ。毎日、大毎では球界を代表する打者として数々のタイトルを獲得したが、阪神では今ひとつ力を発揮できずカープへ。だが初年の1968年シーズンには134試合に出場し、打率.313と復活を果たした。