毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。10月11日の開催まで1カ月を切った。長いドラフトの歴史の中で、カープスカウト陣はこれまで独特の眼力で多くの原石を発掘してきた。

 本企画では、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語った、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 連載当時にエピソードを話してくれた備前氏は、1952年にカープに入団し、長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後はカープのコーチ、二軍監督を歴任。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わってきた名スカウトだ。

 今回は、カープ低迷期に先発、中継ぎとして活躍した左腕・高橋建の入団秘話をお送りする。1995年ドラフト4位で入団した時点で26歳だった高橋。即戦力左腕として中継ぎとして1年目から登板を重ね、先発としても投手陣を支えた。2009年にはメッツでメジャーデビューを果たし、2010年にカープに復帰して現役を引退した。

 41歳まで投げ続けた左腕は、どのような経緯でドラフトされたのか? 備前氏の証言から振り返っていく。

26歳でプロ入りした高橋建。カープ低迷期に先発・中継ぎとして活躍し、2009年にはメジャーデビューも果たした。

◆大学ではノーマークだった

 我々スカウト陣が最初、彼について知ったのは、大学(拓殖大学)の頃だったのですが、その頃は投手としてではなく野手としてのものでした。実際に私が初めて見たのは、彼が大学を卒業してトヨタへ入って1年目の間もない頃、社会人野球四国大会が松山であり、その時に投手として投げた時なんです。

 「えーっ、こんないいピッチャー、大学にいたのか」と思って見たのを覚えています。

 彼がいた頃の拓殖大学は、その当時2部だったので、あまり見てなかったんです。で、東京担当のスカウトに聞いたら「いやぁ、見たけどあれはなかなか使えんですよ」という返事で…。でも、もうその頃、彼はピッチャーになってたから「いや、それがピッチャーとしてやってるんだ。いい球投げるぞ」と言ったら「それじゃちょっと注目しとかにゃいかんな」という話になり、1995年のドラフト4位で獲得しました。

 プロ入り後は、いいとこまで行くんだけど、フォアボールで崩れるんですよね。「どうしてあんないい球があるのにそれで攻めていけんのかなぁ」というのが、我々の気持ちでした。

 やっぱり持ち前の気の優しさがあるのか、それが悪い方に出て、「あーもうダメじゃないかな…、フォアボールを出すんじゃないかな…」というような不安な気持ちが出たところから崩れていくことが多かったように思います。

 ただ建ちゃん(高橋建)は、潜在能力は凄いものがあると思いますよ。地元以上に、中央の評論家に早くから高い評価をされていたらしいですし、本当はもっと勝ち星に恵まれてもいいはずだと思うんですが…(プロ入り8年間で39勝55敗)。崩れるパターンが大体いっしょですよね。年齢的な部分はどうこう言ってもしょうがないんで、あとは精神的なものしかないでしょうね。

 顔も気も若くて、投手陣のいい兄貴分だと思うし、黒田とともにチームを引っ張っていかないといけないんですけどね。やっぱり気が優しすぎるのでしょうか。

 見ての通り、顔も言動も優しくて本当に紳士的。でもその優しすぎる面が野球ではマイナスになってる部分もあるんですよ、建ちゃんは。ユニフォームの時も私服の時も同じような感じできてるからね。だからなかなかあの子は勝ち星に恵まれんのんじゃないかなという気がするんですよ。

 まあ彼の場合は歳をとってから入ってきてますからね。大学出て社会人にいき、26歳でプロに入ってきているわけで、年齢的なものからいえば、普通の私服を着ている時は、優しくて当たり前だと思うんですけどね。ただ、野球をする時は別に物を考えなければいけないと思います。立派な社会人として、ある程度完成されてからプロ野球選手になったって感じはしますね。

 入団した時は既に結婚していて、上の娘さんも生まれてました。いわゆる「子連れルーキー」だったんです。サラリーマンから、保証のないプロ野球に入っていくわけだから、これで家族を養っていくんだ、という気構えは持っていたと思いますよ。いい成績をあげなきゃ、家族を養っていけないわけですから。