カープ初優勝時の監督を務めた古葉竹識氏が11月12日に死去した。葬儀、告別式はすでに近親者のみで執り行われた。85歳だった。

カープ監督を11年間務めた古葉竹識氏。チームを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。

 古葉氏は1958年にカープに入団すると、1年目からショートに定着。1963年には巨人・長嶋茂雄と激しい首位打者争いを演じ、走っては二度の盗塁王を獲得するなど、俊足巧打の選手として活躍。1970年に南海に移籍し、1971年に現役引退。引退後は南海でコーチを務めて、1974年にコーチとしてカープ復帰した。

 カープコーチ2年目の1975年、シーズン開幕直後に退団したジョー・ルーツ監督の後を継いで、39歳で監督就任。チームを初優勝に導いた。1985年まで11年間カープ監督を務め、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導き、カープの黄金期をもたらした。

 カープ監督退任後は、大洋(現DeNA)でも3年間監督を務めた。1999年に野球殿堂入り。2008年から東京国際大野球部監督を務め、その後は名誉監督に。現役時代は1501試合に出場し、1369安打、263盗塁を記録。監督として873勝791敗137分で、歴代15位の勝利数を誇る。

 ここでは偉大な功績を残した古葉氏を偲んで、過去「広島アスリートマガジン」で掲載されたインタビューを振り返っていく。今回は2005年当時、マスターズリーグ・札幌アンビシャスの指揮を執っていた古葉氏に聞いた“チーム作りの考え”をお送りする。

◆機動力を重視したカープ監督時代

優勝から遠ざかって、十数年になるのかな(2005年当時は1991年の優勝を最後に低迷期)。年々、チーム作りが難しくなっているのは確かです。

 フリーエージェントの問題がまずあって、これがチーム間の不均衡を生んでいる。選手というのはどうしても「自分を高く評価してくれる」球団に移っていきますから、戦力が偏ってしまう。それにドラフト制度にも問題があって、カープは非常に苦しいですね。財政面に余裕がないから、どうしてもチーム作りに支障がでてくる。

 こういうときこそ、方針を話し合わないといけません。チームとしてどういう野球を目指すか。それをはっきりさせないと。

 私が監督をしていたとき、機動力を重視しました。山本浩二と衣笠祥雄の両主軸は決して足が速くない。でも彼らには意欲があった。常に次の塁を狙って、私が盗塁のサインを出さないと、「サイン出しなさいよ」とアピールするくらい、気持ちを前面に出して戦ってくれました。

 中心選手がそうだから、脇を固める選手たちも一生懸命にプレーしてくれた。全員が一丸となってそういう野球をしていたわけです。

 それに加えて、高橋慶彦。彼は当初、ピッチャーとして入ってきました。しかし、スカウトの話では「足があり肩がある」。プロでは「野手で成功させてほしい」という話だったんですね。それで内野をやらせてみることにした。

 最初はまったくひどいもので、ゴロは捕れないし、スナップスローもできない。コーチもお手上げだった。でも、彼の足が生かせれば、チームにとってものすごくプラスになる。だから私は彼にこう言ったんです。

「スイッチヒッターをやってみるか。それができればポジションを任すよ」と。

 すると慶彦は「はい」といって、それから猛練習に励んだ。それまでは右で100回打っていればよかったものを、左でも倍以上打って。ほんとによく練習してくれました。

 打つだけでなく守ることも、これくらい練習した選手は他にいないでしょう。それでショートという一番難しいポジションを奪いました。

  慶彦が成功したからこそ、今度は山崎隆造に「お前もスイッチをやりなさい」と檄を飛ばしたんです。それに山崎も応えてくれたんですね。まさに選手の努力と一緒に汗を流してくれたコーチがいたからこそできたチーム作りです。