10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の宣言通り、苫小牧中央の斉藤優汰を1位指名した。

 ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』(2003年当時連載)を再編集してお送りする。

 今回は、1991年のドラフト1位でカープに入団。カープ打線が“ビッグレッドマシン”の愛称で恐れられた時代、“右の代打の切り札”として勝負強い打撃で何度もチームを救った町田公二郎の入団秘話をお送りする。

◆金本知憲と同期入団ですが、大学時代は町田の方が評価が高く、即戦力外野手として1位指名しました。

2006年に現役を引退すると、阪神、カープでコーチとしても活躍。現在は大学・高校野球の分野でコーチとして指導に当たっている。

 カープが6度目の優勝を果たした、1991年優勝した年の秋のドラフト1位が専修大学で4番を打っていた町田です。

 当時の専大は一部と二部を行き来していたのであまり強いチームではなかったように思いますが、東都大学リーグを代表する強打の外野手として、全日本大学選抜でも4番を打っていました。ちなみにその時の3番は4位で指名した東北福祉大の金本知憲(元カープ・阪神)でした。

 ただ最初に1位指名したのは、町田ではありませんでした。同じく東都大学リーグのNo.1投手、駒澤大学の若田部健一(ソフト三軍投手コーチ)を指名したのです。神奈川県出身で在京球団希望の若田部を「将来の投手陣の柱」として強行指名しましたが、巨人・ダイエー・西武との4球団での競合となり、抽選の結果交渉権はダイエーが獲得。敗れたカープは改めて1位に町田を指名しました。俗に言う「はずれ1位」ですが、バッティングはもちろん、守備も足も評価が高かった町田を獲得できた事は、十分成功と言えるドラフトだったように思います。

 町田という選手の存在は、明徳義塾高校時代から私達スカウトは知っていました。しかし彼は早い段階で進学を決めており、接触する事はほとんどできませんでした。当時から長距離打者として注目されていましたが、粗い部分もあったので、球団としては「4年後に期待する」という事で指名は見送りました。

 私が初めて彼に会ったのは、ドラフト指名後のあいさつの時でした。通常は野球部の寮に行くのですが、この時はJR京浜東北線の沿線にある彼のアパートを訪ねました。4年生は既に野球部の寮から出ており、町田もキャンパスやグランドから離れた街で一人暮らしをしていたのです。

 その時に金銭面も含めた具体的な話もしましたが、印象としては「おとなしい子だな」という感じでした。現在でも物静かなイメージをファンの方々はお持ちでしょうが、私から見ても、当時からさほど変わっていないように思います。

 同期入団の金本とは、当初からよく比較されました。しかし当時まだ線が細かった金本と比べて、町田は筋力的にも十分プロの身体が出来上がっていました。即戦力としての評価は金本よりも町田の方が上でした。

 ただ1年目は早い時期に故障をした影響で、一軍デビューは6月からとやや出遅れました。それでもその年の優勝チームであるヤクルト戦でのサヨナラアーチなど、後半戦だけで6本の本塁打を打ちました。この年は49試合の出場でしたが、翌1993年は103試合に出場し、本塁打6本。プロ入りから2年間で109安打12本塁打は、同期間の金本の17安打4本塁打をはるかに上回っていました。

 順調に育っていれば、おそらくレギュラーポジションを獲得していたはずだと思います。しかし3年目の1994年にまた故障してしまい、18試合しか出場できず2安打0本塁打に終わってしまいました。逆に金本がこの年90試合出場で69安打17本塁打と開花。さらに緒方孝市も86試合出場で26安打3本塁打と、この2人が後にレギュラーを獲得する足がかりを作った年にもなりました。

 町田が最も注目されたのは、5年目の1996年の事です。前年に一軍に定着した浅井と共に左右の代打の切り札として、成功率は4割以上。リーグ優勝は逃しましたが、最後まで優勝争いを演じた原動力になりました。セ・リーグ最多の代打本塁打18本を放っている町田ですが、この年を境に「代打の切り札」のイメージが強くなっていきました。

 その打力を代打以外でも生かそうと、町田は本職の外野だけでなく、ファースト、サード、さらにはセカンドを守った事もあります。ヘラクレスと呼ばれた筋骨隆々の体型と甘いマスク、穏やかな性格で独身時代は女性ファンが多かったようです。しかし私から見ればやや大人し過ぎるように見えて、素質からすると早い段階からレギュラーになっていてもおかしくない選手でしたから。

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

広島アスリートマガジン11月号は、新井貴浩新監督の軌跡を振り返る1冊! 広島を熱くする男が帰ってきた!新井貴浩新監督誕生 月刊誌でしか見ることのできないビジュアルも満載です。
鈴木誠也、森下暢仁、西川龍馬・・・ベテランスカウトが語る、獲得秘話がつまった一冊! 眼力 カープスカウト 時代を貫く”惚れる力” 好評発売中。