10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の公表通り苫小牧中央の斉藤優汰を1位で指名。支配下で指名した7選手中4選手が“投手”というドラフトとなった。
ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』を再編集してお送りする。
ここでは、1995年にドラフト3位で入団した玉木重雄の入団秘話に迫る。1年目から30試合に登板すると、中継ぎとして一軍に定着し、2001年には62試合に登板して9勝をマークするなど、苦しい投手陣を支え続けた。退団までに通算351試合に登板したタフネス右腕の入団ヒストリーとは。
◆日本人選手扱いとなる年に活躍し、プロ入りを実現
カープに入団後1年目から毎年中継ぎとして活躍していたのが、玉木重雄です。1995年ドラフト3位でカープに入団した彼には今までの選手と大きく違う点がありました。それは、彼がブラジル生まれの日系三世ということです。
野球を始めたのは5歳のとき、父親の重幸さんから学んだそうです。その後15歳の時に大阪で行われたボーイズリーグ大阪大会にブラジル選抜のエースとして初来日しました。そのとき日本選抜(前田幸長(元・巨人など)や谷繁元信(元・中日など))と対戦し日本野球のレベルの高さに驚き、レベルの高い場所で自分がどれだけできるのか挑戦してみたいと感じたそうです。
そして18歳で再来日し、日本でプロ野球選手になるために社会人野球の名門・三菱自動車川崎に入社しました。当時三菱グループの会社方針だったかどうかはわかりませんが、日本各地の三菱系列の社会人野球チームにはアメリカでもオーストラリアでもなく、中南米の選手が何人づつか在籍していました。
私が玉木を最初に見たのは、来日して3年目くらいだったと思います。その時の感想は、スピードはある程度速いし体力的にも問題ないが、コントロールがあまり良くないなというものでした。そのためすぐに獲得しようという話にはなりませんでした。加えて彼はブラジル国籍ということで外国人枠の問題もありました。日本で6年間プレーすれば外国人でも日本人選手扱いにできるという野球協約があるので、それを待ってから本当に獲得するかどうかを決めようという話になりました。
その後、来日6年目の1995年秋に行われた第22回社会人野球日本選手権で優勝し最優秀選手賞を受賞しました。その活躍からスピードのあるピッチャーを獲得しようという球団の意向もあり、彼の指名を決めました。
彼と最初に話をしたとき一番驚いたことは、日本語を何不自由なく話せるということです。「ブラジルで日本語を勉強したのか?」と訊いたら「そんなことはありません」と答えました。ですから日本に来て相当勉強したんだなと感じましたし、真面目な選手だなとも思いました。その他の印象は、性格的に非常に大人しいなと思いました。ブラジルはラテン文化のため元気が良いというイメージがありますが、そこで育ったとは感じさせないほど静かでした。
【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。