10月20日に開催された『2022年プロ野球ドラフト会議』。カープは事前の公表通り苫小牧中央の斉藤優汰を1位で指名。支配下で指名した7選手中4選手が“投手”というドラフトとなった。
ドラフト会議は各球団スカウトの情報収集の集大成であり、プロ入りを目指すアマチュア選手たちにとっては、運命の分かれ道ともなる1日だ。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。ここでは、カープのスカウトとして長年活躍してきた、故・備前喜夫氏が語るレジェンド獲得ストーリー『コイが生まれた日』を再編集してお送りする。
ここでは、1999年ドラフト7位でカープに入団した松本奉文(現・有史。読みは同じ)の入団秘話に迫る。地元広島出身の松本は崇徳高を経て、亜細亜大に進学。クリーンアップを打つ主軸として活躍し、主将としてもチームをまとめていた。入団後は、新井貴浩、栗原健太らとポジション争いを繰り広げたが、2005年限りで現役を引退。スカウトに転身し、堂林翔太、菊池涼介、薮田和樹などの獲得に尽力した。現在もスカウトとして活動する松本入団の裏側に迫る。
◆ショートを守れるのなら、彼の打撃は指名に値する
藤村富美男さん(元・阪神監督)、鶴岡一人さん(元・南海監督)、広岡達朗さん(元・ヤクルト、西武監督)など球界に多くの人材を輩出した広島県呉市が、松本奉文の出身地です。
彼は中学生時代は地元の硬式野球クラブでプレーし、高校は広島市内の崇徳高に進みました。3年生となった1995年夏には4番・ショートで主将としてチームを引っ張り、広島県大会の決勝に進出しました。宮島工高に敗れて甲子園出場はあと一歩で成りませんでしたが、松本については我々スカウトも攻守のバランスに優れた強打の大型内野手として早くからリストアップしていました。ただ彼は既に亜細亜大への進学を決めており、球団としては大学や高校に頭を下げて強行指名するよりも、大学4年間での成長を待とうという事で、その1995年秋のドラフトでは指名を見送りました。
彼は亜大に進学後もショートを務め、3年生からはクリーンアップを任されるようになりました。しかし4年生で主将となった1999年のリーグ戦では、ショートではなくファーストとして試合に出ていたのです。彼のセールスポイントである打撃を生かすためと、下級生で彼より守備面で優れたショートがいたからではないかと思います。
ただ我々スカウトの立場から見た場合には、「ショートを守れるのなら、彼のバッティングは十分指名に値する。しかしファーストの選手として考えれば、さらにバッティングが良くなければ」というのが正直な評価でした。182cmという体格は決して大きいわけではなく、パワーの面でも長距離打者と言うよりは中距離打者であるという見方をしていました。当時の彼のバッティングは、遠くまで飛ばす事よりも、ボールをバットでしっかり捕らえる事に優れていたような気がします。
当時の亜大の監督さんと話をしてみると、松本に関しては他球団との競合はない様子でした。松本自身もプロ志望で、しかも地元でのプレーを希望していたそうです。そこで我々は「下位での指名になりますが」と獲得の意思を大学側に伝えて、同年秋のドラフト会議で彼を7位で指名しました。
松本とは指名あいさつで初めて直接話をしたのですが、「亜大野球部史上、最も優しい主将」と言われていた彼は、とても礼儀正しくて穏やかな性格のように感じました。
【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日。
広島県出身。
旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。