多くのカープファンに愛され、数々の名試合が生まれた旧広島市民球場。ここでは、カクテルライトを浴びながら白球を追った懐かしの赤ヘル戦士たちが語ったエピソードを紹介。今回は、野球殿堂入りも果たしたレジェンド右腕・外木場義郎氏がノーヒットノーランの裏側を明かす。(広島アスリートマガジン2008年掲載記事を再編集。表現・表記は掲載当時のまま)

数々の名勝負が繰り広げられた旧広島市民球場

◆「もう1回やりましょうか」誤解が一人歩きをしたノーヒットノーランへの一言

 私は東京五輪が行われた、1964年の途中にカープに入団しました。当時のカープはあまり強くなかったのですが、いざ入ってみると良いピッチャーばかりで、プロの世界でやっていくことは厳しいなと感じたことを覚えています。

 そんな私が第一線で活躍するようになったのは、1968年に監督に就任された根本陸夫さんのお陰です。根本さんが私を育てて、先発として使ってくれたのです。

 もちろんそれまでも努力はしてきましたが、使ってもらえるということで、それだけのものを発揮しなければいけないという気持ちでプレーしました。根本さんが監督をされた初年度に完全試合、監督最終年となる1972年にはノーヒットノーランを達成でき、何か縁のようなものを感じています。

 広島市民球場ではありませんが、プロ初勝利がノーヒットノーランでした。その際に「何ならもう1回やりましょうか」という私のコメントが一人歩きしていたようですが、あの発言には理由があったんです。

 当時は今と違ってマスコミの数が少なかった時代。彼らとの話の中で「こういった記録をつくった人は短命に終わる選手が多い」と、ある記者が口にしたので、「何ならもう1回やりましょうか」とポロっと出てしまったんですよ。それが大きく伝わってしまったようです。

 ただ、結果的にその後に2回やるわけですから不思議なものですよね(笑)。広島市民球場での思い出も、個人的なものでいえば、完全試合やノーヒットノーランになりますね。他の球団にいたら記録達成できたかどうかは分かりませんから。

 完全試合した日は、前の晩から降り続いていた雨が当日の朝11時くらいまで降っていたので、「今日は中止かな」と思っていました。そのため気持ちが緩み、良い意味でリラックス状態になっていたのです。

 それが昼には雨が止み、試合が行われると決まった時は一瞬「えっ?! 試合あるの」と驚きました。それでも空はどんより曇っていたので、お客さんは3〜4,000人ぐらいしか入っていませんでした。ただ、天候の影響でイレギュラーのないほどグラウンドコンディションがよく、ボールのかかりもよかったんです。気持ちも、いざプレーボールがかかると勝ちたいというスイッチが入りました。そして何より当時バッテリーを組んでいた田中さんがいいリードをしてくれて、私のいいところを存分に引き出してくれました。

 もちろん、完全試合はひとりでできるものではなく、野球は9人でやるわけなので、みんなの力が総合的にプラスアルファとなって出てくるわけですから、それが結果に繋がったのだと思います。

 それでも広島市民球場での一番の思い出と言えば、やはり1975年の初優勝ですね。

 それまで優勝とは無縁でしたから、優勝が決まった瞬間は頭の中がパニック状態になっていました。冷静さがあればうれしいというような感情が出るんでしょうが、あの時は何も言葉は出ませんでした。ただ、頭の中が真っ白になって、「ああ、優勝したのかぁ」というだけ。それほど興奮状態に陥っていました。

 広島市民球場がなくなることは、時代の流れなのかもしれません。それに球場の老朽化を考えると、選手のためにはもうちょっと良い球場でやらせてあげる方がいいのかなという思いもあります。

 ただ個人的にいえば、外木場義郎という投手は広島市民球場で育ったと思っていますので、その球場がなくなるのはやはり寂しい。せめて広島市民球場最後の今年はプレーオフに出場してもらいたい。そして地元開幕権を得て、来年完成する新球場で開幕戦を戦ってほしいと思います。

■外木場義郎
1945年6月1日生まれ
出水高から電電九州を経て、1965年に入団。1968年に先発に定着し、21勝をマーク。1975年には最多勝を獲得するなど初優勝に大きく貢献した。79年に現役を引退した後は広島やオリックスなどで投手コーチを務めた。