カープの長い歴史の中で、これまでに18人の指揮官がチームを率いてきた。人を育て、チームを一つにし、そして、それぞれの哲学をもとに大きな目標に向かって進んでいく。

 歴代の名監督の下で苦難を共にしたカープOBが語るその人物像と、そこから垣間見える人材・チーム育成のヒントを探る。

個々の意識改革を促し、選手に対し常にオープンな姿勢で受け入れたブラウン監督

◆ 2006年、最下位に沈んだチームの再建を託されたのは、かつてカープで選手としてプレーしたマーティ・ブラウン。独自の発想で改革に乗り出し、チームに新風を吹き込んだ。ブラウンの元で復活を遂げた横山竜士氏が、その人柄と思考を語る。(広島アスリートマガジン2018年4月号より)

 当時は、ほとんどの選手が外国人監督の経験がなかっただけに『どうやってコミュニケーションを取ればいいのだろう』という雰囲気がありました。僕は山本浩二監督の下で故障続きだったこともあり、プロ野球選手としてこの先もう一踏ん張りしなければならないという時期でした。

 そんな中で迎えたキャンプではマーティーからの指示はほとんどありませんでした。投手陣の練習は投げ込みも走り込みもなく、それまでとは練習方法が一気に変わり、個々が課題を持って調整をするというマーティーの方針は僕に合っていました。

 そして過去の成績、投球スタイルについても、特に指摘されることはなく、横一線で選手たちを見ていたと思います。

 マーティーが行ってきた数々の改革の中でも、僕に直結したものが中継ぎ投手陣のローテーション制でした。最大でも2連投すれば、翌日の登板はありませんでしたし、とにかく投手の故障のリスクを回避するというものです。それまでカープでは誰が投げるかがはっきり決まっていなかったので、マーティーが完全分業制としたことで、リリーフ投手陣は準備しやすくなり、もとても調整しやすかったです。

 またマーティーは「俺の扉はいつでも開いているから、何でも聞いてこい」と、選手に対してオープンなスタンスでした。

 僕は積極的に意見することが多かったのですが、「四球を気にするのではなく、とにかく球を低めに集めなさい。君たちの役割は低めに投げてゴロを打たせることだ」と言われたことがありました。それはどういうことかいうと、リリーフは長打を打たれれば失点する確率が高くなる、このリスクを回避するという考えです。

 また『結果的に四球になったとしても低めに投球すれば、内容は問わない』という方針はとても画期的でしたし、個人的に直球の勢いが衰えてきた時期でもありました。それが投手としての意識改革、モデルチェンジをする大きなきっかけになりました。

 積極的にコミュニケーションを図る監督でしたが、それはグラウンドの外においても変わりませんでした。時には「みんなでアメリカンフットボールを見よう」と数人の選手を誘い、一緒に食事に行ったり、お酒を交えて楽しくコミュニケーションを取る機会もありました。日本的な考えで言えば、監督と選手という間柄でそのようなことは希なことだと思いますが、そこは外国人ならではの考えだと感じましたし、マーティーに対しては『監督・上司』というよりも、選手により近い『同士』という感覚で普段から接することができていました。

 記憶している方も多いと思いますが、マーティーはベースをぶん投げてみたり、よく退場をする激情型の指揮官というイメージがあると思います。ですが退場をしてもベンチ裏では冷静に試合展開を見ていましたし、その行動すべてがチームを勝利に導くため、選手たちの士気を上げるためのパフォーマンスだったのでしょう。

 もちろん、それはリスクを伴うものですが、マーティーからは『これで上手くいかなかったら、すべて自分の責任だ』という気持ちをいつも感じさせてくれましたし、選手目線からでもある意味面白いなと感じました。

 結果的にマーティーがカープを率いた4年間は、なかなかチームの戦力が整わず、苦しいシーズンが続きました。ですが僕個人としては、プロ野球選手としての考えを変えてくれた良い出会いでした。もしマーティーに出会っていなければ、投手として若い頃からの理想像を追い求め過ぎ、選手生活がもっと早く終わっていたと思います。

 当時の僕にとって、『今の自分の活かし方は何なのか。この先チームに対してどういう立ち位置でプレーしなければならないのか』を考える大きなきっかけになりました。

 4年間マーティーの下でプレーをして、合理的な考えを持った、アメリカ版野球小僧な監督だと感じました。そして、あの時期にマツダスタジアムへ移り、ファンに対するサービスの考え方も含めて、カープが変化していくきっかけをつくった監督であったと思います。

 

●横山竜士/よこやまりゅうじ

1976年6月11日生、福井県出身。1994年ドラフト5位で広島に入団。入団3年目の1997年に三村敏之監督に見出されて一軍デビューし、中継ぎとして10勝をマークしてブレイク。その後先発に転向するも、右肩の故障により不振に陥る。2006年にブラウン監督の下で中継ぎとして48試合に登板して復活を果たすと、2007年には60試合に登板。その後も中継ぎの中心として投げ続け、2013年には通算500試合登板を達成し、初のCS進出に貢献。2014年限りで現役引退。

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