2005年から12年間をサンフレッチェで過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。

 共に紫のユニホームを着たチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を、広島アスリートマガジンの連載『エースの証言』で振り返っていく。

現在はブンデスリーガ・VfLボーフムに所属する浅野拓磨(写真は広島所属当時のもの)

◆最初は印象に残らなかった。J初ゴールで成長が加速

 拓磨に初めて会ったのは2012年、高校3年生でサンフレッチェの練習に参加したとき。その年の1月に高校選手権で得点王になり、チームの準優勝に貢献していたので、名前は知っていました。

 ただ正直、全く印象に残らなかったです。あの年はポイチさん(森保一監督)の就任1年目で、Jリーグ初優勝を達成するシーズン。先発だけでなく、控えのメンバーも個々のクオリティーが高かったですから、いきなり高校生が入っても力を発揮するのは難しかったはずです。狭いエリアで行われるメニューが多く、拓磨が武器のスピードを発揮できるような練習でもありませんでした。

 翌年に加入してからも、しばらくは良いプレーが見られませんでしたが、この時期にプロ選手としての土台をつくったことが、その後の飛躍につながったと思います。当時サンフレッチェの若手は週に2日、2部練習をしていて、拓磨も懸命に取り組んでいました。ヨコさん(横内昭展コーチ)の元で、日々取り組んだ成果が表れ始めていたので、拓磨は良くなっているよね、というのが僕を含む周囲の共通した見方だったんです。

 だから2015年にJリーグ初ゴールを決めると、一気に成長が加速しました。若い選手の成長速度は、中堅やベテランと言われる年代の選手とは大きく違います。最初の1点を決めて自信をつかんだことでプレーの正確性などがアップし、さらに得点を積み上げていきました。

 拓磨の良さは何といっても、トップ・オブ・トップのスピード。あれは天性のもので、カウンターを1人で完結させることができるレベルでした。Jリーグ初ゴールを決めた試合もそうでしたが、あのシーズンは僕が先発で出場し、拓磨が僕との交代で出場する形が定着して、お互いを補完し合うような関係でした。

 拓磨が控えているから、僕は試合開始から全力で飛ばすことができた一方で、拓磨が先発でもおかしくないレベルまで成長してきたという感覚もありました。結果を出せなければ、すぐポジションを奪われてしまう。もちろん拓磨もスタメンで出たい思いがあったでしょうから、ピッチ内では高め合う関係でした。

 でもピッチを離れれば、一緒に食事に出かけたり、ライブを見に行ったりしました。拓磨は(野津田)岳人と同じで、先輩にかわいがられるタイプなんです。特にミズ(水本裕貴)が面倒を見ていて、僕も多くの時間をともにしました。

 2016年は背番号が29番から10番に変わり、さらに中心選手へと成長することが期待されていましたが、夏に海外移籍でサンフレッチェを離れることになりました。満足に出場機会を得られなかったところから海外移籍まで、あらためて成長スピードの速さを感じたものです。シーズン中にバタバタと移籍することになったので、食事に出かけて送り出すことはできませんでしたが、海外に行くと移動が多くなるだろうと思って、餞別にスーツケースをプレゼントしました。

【後半につづく】

広島アスリートマガジン4月号は、いよいよ始動した新井新監督が表紙を飾ります!広島のスポーツチームを率いる監督たちの哲学にもご注目ください!