6月19日に執り行われた北別府学氏の葬儀。そこで弔辞を読んだのが、黄金期を支えた同世代左腕・大野豊氏だ。ともに先発として、そして、先発と抑えとして投手王国を築き上げた大野氏が、『エース』と呼ぶ盟友との思い出を振り返った。

北別府氏の葬儀で、列席者を代表して弔辞を読んだ大野豊氏

北別府は、私たちの時代の『カープのエース』と呼べる存在だった。

 6月16日の北別府の訃報を受けて、大きなショックと悲しみを感じました。

 それまでにも、なかなか厳しい病状なのだということは伝え聞いてはいましたが、ともにカープで戦った選手ですし、同世代ということもあり、なんとか持ち堪えてほしいと願い続けていました。それだけに、訃報を聞いた時のショックは大きなものでした。

 彼は闘病生活を公表していましたが、私は報道されるまで全く知らなかったもので、ニュースを見て驚いて連絡を入れました。「しっかり治してください」と伝えると、「心配をかけて申し訳ありません。完治を目指して頑張ります」と返事をしてくれたことを覚えています。彼の闘病期間がちょうどコロナ禍の真っ只中だったこともあって、直接会うことはできず、メールでやり取りする程度の交流しか持つことができませんでした。

 本来であれば2022年に開催された『レジェンドゲーム』に北別府も一緒に参加する予定でしたが、その頃にはマウンドで投げることが難しい状態だという話は聞いていました。せめて、車椅子でも構わないから、みんなに顔を見せてもらえれば……という思いもありましたが、それもコロナ禍にあって、なかなか難しいということでした。代わりに私が北別府の背番号のユニホームでマウンドに上がらせてもらったのですが、これは黒田(博樹)から、「やっぱり、大野さんが投げるのが一番良いと思います」と言ってもらったことが理由の一つです。ああやって、北別府のユニホームを身にまとって参加できたことは、今思い返しても非常に良かったなと思います。

 北別府の葬儀では、私が代表して弔辞を読ませてもらいました。私にとっては、弔辞を読むこと自体が初めての経験です。もちろん寂しいという思いもありますし、当時のことを思い出すと、こみあげてくるものがありました。実際に祭壇の前に立って、飾られた北別府の笑顔の写真を見ながらお別れの言葉を口にしようとすると、やはり胸が詰まるような思いになりました。まだまだ65歳という年齢でしたし、大病にかかっても、なんとか乗り越えようと必死に頑張っていると聞いていましたから、それを乗り越えることができなかった悔しさ、苦しさがいかばかりだろうと感じました。写真と言えども、北別府の目の前で別れの言葉を述べるというのは、本当に辛いものがありました。

 北別府は、球団初の生え抜きでの20勝投手で、私たちの時代の『カープのエース』と呼べる存在でした。年齢は彼の方が下ではありましたが、プロとしての生活は北別府の方が長かったわけですから、チームのエースとして一緒にカープで過ごすことができたことは、本当にありがたいことだったと感じています。そういった思いもこめて、精一杯、弔辞を務めさせてもらいました。

大野 豊
1955年8月30日生、島根県出身。1977年に出雲市信用組合からテスト入団を経てカープに入団。中継ぎとして台頭し、1979〜1980年はカープの2年連続日本一に貢献した。球界を代表する左腕として活躍し、1988年には最優秀防御率に輝き、沢村賞を受賞。現役引退後は、1999年、2010〜2012年にカープで投手コーチを務めた。通算148勝100敗138セーブ。現在は野球解説者として活動中。

広島アスリートマガジン8月号は、「追悼特別特集 北別府 学 ありがとう 20世紀最後の200勝投手」カープが誇る大エース北別府学氏が残した偉業の数々を振り返りながら、強いカープを共につくりあげた仲間たちが語るその姿をお届けします。