2023年6月19日に執り行われた北別府学氏の葬儀。そこで弔辞を読んだのが、黄金期を支えた同世代左腕・大野豊氏だ。ともに先発として、そして、先発と抑えとして投手王国を築き上げた大野氏が、『エース』と呼ぶ盟友との思い出を振り返った。
◆球団史上初の200勝を達成
現役中には、北別府も私も沢村賞を受賞しました。ただ、同じ賞を受賞したからといっても、彼の存在はやはり別格だと感じることが多くありました。
北別府の勝利にかける執念や思いは非常に強く、その姿を見ながら、私も成長しようと感じることのできる存在でした。すべてにおいて私よりも上のものを持っていた投手でしたから、自分自身がいくら勝ち星を積み上げたとしても、私のなかには常に、『カープのエースは北別府だ』という思いがありました。
私の場合は、先発のほかにリリーフや抑えなど、さまざまなポジションを経験したので、先発一筋だった北別府の立場とは少し異なるかもしれません。そんななかでも、彼は私が投手として認める選手の一人でしたし、『彼には勝てない。けれど、負けないように頑張ろう』……そんな風に感じさせてくれる選手でもありました。
1991年になると、私は先発から抑えに再転向しました。北別府が先発して、私が抑えでマウンドに上がるという試合も数多くありましたが、その頃には互いにベテランと呼ばれる年齢になっていました。
北別府は、私が若い頃に抑えをしていた姿を知っていますし、そこから先発に転向して投げている姿も知っています。ただ、抑えに再転向したこの頃の方が、私の投球に対する信頼度は高かったのではないかと思います。
後に北別府はカープ初の200勝投手になりましたが、200勝が近づいてきた1992年は、私に限らず、リリーフ投手たちに相当プレッシャーがかかっていたのではないかと思いますし、『なんとか早く200勝を達成してほしい』と思っていました。ですから、彼が大記録を達成した7月16日の中日戦で抑えとしてマウンドに上がった時は、私としても、非常に力が入りました。結果的に、私が抑えて北別府に勝ちがつき、200勝を達成しました。球団史上初の200勝投手の、その記念すべき200勝目の試合を私が抑えて達成できたというのは、素直にうれしかったですし、印象に残っています。
試合後に「ぺー、おめでとう」と声をかけたら、「迷惑かけましたけど、本当にありがとうございました」と笑顔で答えてくれたことを覚えています。その頃には北別府自身も、若い頃のような気の強さではなく、一人ではここまで来ることはできなかったという、周りへの感謝の気持ちを強く持っていたように思います。
大野 豊
1955年8月30日生、島根県出身。1977年に出雲市信用組合からテスト入団を経てカープに入団。中継ぎとして台頭し、1979〜1980年はカープの2年連続日本一に貢献した。球界を代表する左腕として活躍し、1988年には最優秀防御率に輝き、沢村賞を受賞。現役引退後は、1999年、2010〜2012年にカープで投手コーチを務めた。通算148勝100敗138セーブ。現在は野球解説者として活動中。