1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。没後32年、33回忌を迎えた今年、改めて津田氏が残した功績を関係性の深いOBのエピソードとともにお届けする。
強気の投球でファンを魅了した津田恒実氏だが、高校時代の恩師・坂本昌穂氏は「プロ向きではない性格だった」と語る。南陽工高時代の津田を指導した坂本氏が、津田氏の『変化のきっかけ』となった試合を振り返る(全2回/第1回)
◆高校時代から津田を支えた「弱気は最大の敵」という言葉
津田が亡くなってから32年が経ち、周りの仲間たちはみな定年を迎える年齢になりました。彼らと会うと『津田が生きていたら、今どうしているだろうか。立派に世のために働いていたんだろうな』と考えます。
私が初めて津田と出会ったのは、和田中学3年の時で、『良い投手がいるぞ』という噂を聞き、試合を見に行きました。その時の津田は、ものすごい勢いでストレートを投げていて、誰が見ても“すごい投手”とわかるほどで、本当に驚いたことを今でも覚えています。
その後、縁もあり、津田が南陽工高に入学し、津田との野球生活が始まりました。津田は誰にでも優しく、素晴らしい性格の持ち主なのですが、野球選手としては『気弱』と捉えられてしまうところがありました。
人を追い越して自分が1番上手にならなければ、選手としての座もつかめません。ですが、負けん気を一切表には出さないものですから、それが少し物足りないと言えば、物足りない……その性格を強くしたいという思いで私は向き合うことにしました。
ただ、「お前は気が弱すぎる」とか、そんなことを言っても何の役にも立ちませんので、褒めることを意識して指導をしていました。いま振り返ると、本人は辛かっただろうと思います。練習では良い球が投げられるのに、本番になると気持ちの面で弱さが出てしまう。『打者に当ててしまったらどうしよう』という思いから、インコースに投げられず、四球を出してしまい、自滅する……。そういう試合が1、2年の頃はとても多かったように思います。「いろんな経験を積んで強くなれるから」ということを日々伝えていました。そして、彼は自分の力でこの弱さを克服していったのです。
彼を成長させたきっかけが2年の夏の山口大会です。津田が完全試合を達成し、それをきっかけに一気に一流の投手に登り詰め、まさにエースへと成長しました。そのきっかけを今思い返すと、彼が彼自身の弱さを受け入れたことです。『自分がなぜ、投手としてトップに立てないのか』ということを自覚したのだと思います。
人間は誰しも弱さを持っていますが、その弱さを人前では隠そうとします。特に年ごろでしたから、なおさら隠していたのでしょうが、彼はそれを認めたのです。その結果、完全試合という成功体験を成すことができました。その後、高校3年になった津田は、野球ボールに『弱気は最大の敵』という言葉を書き、年中持ち歩いていました。この言葉を座右の銘にし、『認める』ということこそが、人間にとって大事なことなのだと津田が教えてくれました。
津田は、1981年のドラフト会議でカープから1位指名を受け入団しました。故郷からも近いカープに入団できて、十分な評価もしていただき、本人も喜んでいただろうし、それを思うと私たちや同期の選手もみな大喜びでした。オフになると、津田はよく挨拶にきてくれて、礼儀や恩を大切にするすばらしい子でもありました。
その後のカープでの津田の功績は、ファンのみなさんがご存知の通り、素晴らしいものでした。
(後編へ続く)