没後32年、33回忌を迎えた津田恒実氏。現役時代は『炎のストッパー』と呼ばれ、多くのカープファンに愛された。強気の投球でファンを魅了した津田氏だが、南陽工高時代の恩師・坂本昌穂氏は「当時はプロ向きではない性格だった」と振り返る。恩師が語る、病室での津田氏の様子。そして、津田氏の地元でその足跡を伝え続ける場所とは。(全2回/第2回)

津田の功績を伝える『津田プレート』。現在はマツダ スタジアムの選手通路に設置されている

◆教え子の存在が生きる力に

 カープ時代の彼の投球フォームは、体がやわらかく、全体にバネがありました。私の監督人生でも『津田の投球フォームが理想』だと考えていて、指導者として参考にさせてもらったものです。

 そんななか、1991年に津田の病が発覚しました。

 私が福岡の病院に見舞いに行った時には、随分と体も弱っており、本当に愕然としました。ですが、カープで一流の選手に育てていただき、彼が投げている姿が脳裏に浮かぶと、『きっと良くなる。この病に打ち勝ってくれる』という思いになりました。

 本人も当時は結婚したばかりの奥さんのこと、息子さんのことなどを思い、絶対に立ち直るんだという気持ちで日々戦っていたと思います。あまり喋ることも上手にできないような状態でしたが、『1週間に一度は子どもが病院に来てくれるんだ』と小さな声でニコっと笑う、そんな顔を今でも覚えています。一度は退院までこぎつけ、これで病気を乗り越えてくれたと我々も万歳をしましたが、現実は厳しいものです。変われるものなら変わってやりたい。そのくらい、私にとっては大切で、かわいい教え子でした。

 数年前までは津田の命日に墓参りをしていましたが、私もなかなか山を登ることができなくなり、重ねた日々の長さを改めて感じています。ですが津田は、日々私の夢に『高校時代のユニホーム姿』で顔を出すのです。彼のおかげで教員生活も全うできました。彼こそが、人生で一番大きな“勇気”であり“生きる力”を与えてくれている存在でした。

 彼の人生を振り返ると、32年間という時間的には短い寿命だったのかもしれません。ですが、私は人の心の中に生き続けることこそが、本物の寿命だと思っています。ですから津田は本当に長生きしていますよ。そして、闘志満々で、精一杯魂を込めた投球をしている姿を誰も忘れようがありません。

 昨年から津田の地元でもある『和田市民センター』に津田のこれまでの記念品が飾られるようになり、私もそのお披露目会に参加させていただきました。プロ野球選手になるということだけでも大変なことなのに、プロになってからさまざまなトロフィーや賞状をもらっていたんだなと本当に誇らしく思います。

 また、『津田恒実メモリアルスタジアム』は、元々地元の『徳山市野球場』という、平凡な名前の球場だったのですが、我々高校野球の関係者にとっては憧れの球場でした。ちょうど名称変更の公募をおこなっていた時、『名前を変えることをどう思われますか? 津田さんの名前をつけようという意見が出ているのですが』と聞かれたことがあります。『津田は引っ込み思案なところがあるから、こんな憧れの場所に自分の名前をつけるなんて、天国で恥ずかしがっていると思いますよ』と答えたのを思い出します。そして、津田の微笑んでいる顔が思い浮かびました。

 私自身、教え子を未だに慕い、彼から教えられたことばかりです。津田は、人間として本当に素晴らしい子でした。

■坂本昌穂(さかもと・まさほ)
1945年1月7日生まれ
南陽工高監督時代の1978年に津田恒実とともに春夏連続で甲子園出場を果たす。その後は同校の校長を経て、2007年から2011年まで山口県の周南市教育長を務めた。日本高野連より『高校野球育成功労賞』を受賞している。