1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。没後32年、33回忌を迎えた今年、改めて津田氏が残した功績を関係性の深いOBのエピソードとともにお届けする。
近鉄(現・オリックス)からカープに移籍して津田氏と出会い、チームメートとなった森脇浩司氏。津田氏と同じ1960年生まれのチームメートとして、また親友として苦楽を共にしたふたりの交流は、森脇氏がカープを離れた後も続いた。ここでは改めて津田氏との思い出を森脇氏に語っていただいた。(全2回/第2回)
◆共に過ごした闘病生活と、果たせなかった約束
津田がこの世を去った後に過ごしてきた時間の中で苦しいと感じた時、いつも津田の事を思い出し、自分の中で自問自答することがあります。同時に今も「何でそんなに早く旅立ったんだ……」という悔しさもあります。感謝の気持ちを込めて見送ったつもりではいるのですが……そういう気持ちもあります。だからこそ、「お前の分まで生きる」と、そう思いながら、彼と会話して過ごしています。
現役時代、カープに在籍していた頃の話ですが、津田は右手の中指の血行障害で苦しみ、私は腰を痛めていました。その時期、彼は「お互いに年老いたら、俺は片腕がないかもしれないし、お前は車椅子かもしれないな。どんな状態になっていても、60歳になったら一緒に旅行に行こうな」と約束していました。当時はお互い独身でしたが、やがて結婚して、それぞれ家族を持っているだろうけど、一緒に旅行をしようと。
結果的にそれは果たせなかったのですが、33歳で親友である津田と別れ、人生を歩んできた中で、30代、40代と走り続けてきて、60歳に近づく50代になると、ますます現実が近づいてきますが「充実した60代を送りたい」「そのために今頑張るんだ、ここを頑張るんだ」と思いながら、60代を迎えることを楽しみにしながら過ごしてきました。この思いを改めて家族に話をしたことはありませんが、自分の気持ちの中では、いつもモチベーションの1つとして、日々を過ごしていました。
今の時代はネットや動画サイトなどが普及していますが、そういうメディアを通じて津田の功績は見ることができます。
そういう形で津田が語り継がれていて、節目では津田の話題もさまざまなメディアで紹介していただく機会があります。あの闘志溢れる勇姿を見て、元気をもらえる人たちもいると思います。私としては親友として、家族の1人として、津田の話題はいつも世の中に出ていてほしいですし、そういう方々にお礼をお伝えしたいなと思っています。
そして、津田が語り継がれるのはカープファンのみなさまに支えていただいているからこそです。
老若男女問わず、万人に支えられた津田も旅立って早32年。時は流れ、カープの本拠地も旧広島市民球場からマツダスタジアムとなりました。津田を知る世代も親となり、子どもたちへ津田が語り継がれることを、家族として誇りに思うと同時に、心から深く深く感謝をしています。私も津田から元気、勇気、多くの財産をもらいました。
熱烈でありながら、モラルがしっかりしているカープファンのみなさまの存在こそ、私の誇りであり、多くの人に影響を与え続けています。これからのカープの歩み同様、カープファンの歩みを応援しています。そして、津田の事を忘れないでいてください。
■森脇浩司(もりわき・ひろし)
1960年8月6日、兵庫県出身
1978年ドラフト2位で近鉄に入団。現役時代は内野のユーティリティープレーヤーとして活躍。1984年にトレードでカープに移籍し、同学年の津田氏とチームメートとなる。1987年途中に南海(1989年〜ダイエー)に移籍し、1996年に現役引退。その後はダイエー・ソフトバンク、巨人、オリックス、中日、ロッテで指導者を歴任。2013年からはオリックス監督を務めた。現在は硬式野球クラブ FTサンダースのGM、沖学園シニアディレクター、心理カウンセラーとして活動中。