1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。
後にカープの左腕エースとなる大野豊氏だが、プロ初登板は防御率135.00という苦いデビュー戦となった。しかし、そんな大野氏にとって転機が訪れる。南海の名左腕・江夏豊氏がカープに入団したのだ。1978年、のちに師と仰ぐ投手との出会いを、大野氏の言葉で振り返っていく。
(『広島アスリートマガジン』2005年2月号掲載記事を再編集)(全10回/第6回)
◆選手人生で大きな転機となった師との出会い
散々だった一軍初登板から年が明け、1978年から背番号が『60』から『57』に変わった。
その年の春季キャンプで、私は野球人生において実に大きな出会いを迎える。前年オフに南海から獲得した江夏豊さんに、古葉竹識監督が私の指導役を頼んだのだ。
社会人時代に同じ背番号を着けた憧れの左腕が、キャッチボールから私のようなひよっ子を見てくれるだけでもとてもうれしかった。これは技術面だけでなく、『気持ちの張り』の部分でも大きかった。報道陣が江夏さんの練習に注目すると、その横にいる私にも目が向けられることになる。だから「普段の練習でも変な所は見せられない、集中してやらなければ」という気持ちで取り組めた。
野球に対する考え方も、その時から変わってきたように思う。 江夏さんがカープに在籍した3年間で、私は投手としてのさまざまな事を基本から熱心に、細かく厳しく教えられた。
江夏さんの前では、私は常に緊張していて直立不動だったが、そうやって真剣に練習に取り組んだ事もあって、1978年のオープン戦は15イニング無失点で、念願の開幕一軍入りを果たす事ができた。
前半戦では2度先発したが、実際にプロ初勝利を挙げたのは、8月12日のヤクルト戦だった。4回表1アウトから登板し、それまでで最も長い5イニング2/3を投げ切った。これでようやくカープの一員になれた気がした。

