お笑い芸人として活躍中のザ・ギース尾関高文氏の本連載。これまでカープに在籍した歴代外国人選手を、時には厳しく、時には優しく、時にはユーモアを交えながら、尾関氏ならではの視点で紹介していきます。今回は、2004~2006年、2010年に活躍した超万能左腕・ベイル選手について語っていただきます。

◆マルチな才能でグラウンド以外でも大活躍!

 カープが首位と20ゲーム差で5位に終わった2004年。先発ピッチャーとしてチーム最多の11勝をあげたのがベイルでした。翌年は守護神として24セーブをあげる大活躍。かと思えば“カープおもしろTシャツ”の始まりにも一役買ったベイル。カープ史上1番振り幅の大きい助っ人と言っても過言ではありません。ベイルのことが大好きだった“ベイラー”も多いのではないでしょうか。

 カープ助っ人左腕史上初めて勝利をあげたピッチャーがベイルだと知っている人は少ないのかもしれません。最初の助っ人ピッチャー・レーシッチが1984年にカープにきてから20年。初めてカープでガッツリと活躍した左腕でもあります。初年度は先発投手として、翌年は守護神としてフル回転。150キロを超える速球もさることながらそのフォームも特徴的でした。スリークオーター気味のピッチングをしたかと思えば、突如としてサイドスローになる超絶変則型。そのピッチングスタイルに漫画の登場人物のようなワクワク感を抱いたものです。

 完璧に抑えるというわけではありませんでしたが、『なんだかんだで結局抑えた!』というカープ的なリリーフもドキドキ感を抱かせてくれました。

 古巣ブルージェイズではファンクラブもあったというベイル。そのシュッとした顔立ちに来日直後はハリウッド俳優のようだとも騒がれました(極一部カープファンの間で)。さらに1勝、または1セーブにつき1万2500円を積み立てて、グローブを広島の教育委員会に寄付するという素晴らしすぎる取り組みまで。それだけではありません。抑えの永川さんに交代する時、消火器を渡すというユニークすぎるパフォーマンスに衝撃を受けました(極一部のカープファンが)。

 そして何より今のカープの代名詞ともいうべきユーモアTシャツの第1弾は、このベイルの協力でできたものだったのです。ことの発端はブラウン監督のベース投げ事件。ロマノ投手の退場に抗議すべくブラウン監督がベースを投げたシーンは達川さんがコンタクトを探すシーンと並んで日本国民ならば誰もが覚えていますよね。

 その事件をいじる形で作られたTシャツの文言「M Y  M A N A G E R  T H ROWS B A S E S」(我々の監督はベースを投げるよ)とブラウン監督用のTシャツに書かれた「I T H ROWS B A S E S」を考えたのがベイルだったのです。国際業務部とベイルが協力してつくったというこちらのTシャツ。このTシャツの流れが後にカープのお家芸とまで言われるとは、当時夢にも思っていなかったでしょう(「I L O S T   M Y   C O N T A C T」と書いてある“達川さんのコンタクト探しTシャツ”などもつくって欲しいですね)。