今から遡ること42年前の1984年、リーグ優勝を果たしたカープは日本シリーズで阪急を下し、3度目の日本一を達成した。当時のカープは古葉竹識監督がチームを率いて10年目のシーズン。日本一はまさに、古葉野球の集大成でもあった。

 今回は、9年越しのリベンジに成功した1984年の日本シリーズを振り返る。初優勝を果たした1975年の日本シリーズで4敗2分と完敗を喫した阪急を相手に、古葉カープはいかにして戦ったのか。

『日本選手権シリーズ優勝記念碑』。当時の主力投手であった山根和夫氏は、ここに刻まれた日本一全てに関わっている

◆カープが1975年のリベンジに成功

 阪急を迎え撃つにあたり、カープが取った作戦は徹底的な『ブーマー封じ』だった。阪急の4番に座るブーマーはこの年、ペナントレースで37本塁打(本塁打王)、130打点(打点王)、打率.355(首位打者)という驚異的な成績を残し、来日外国人選手初の三冠王、MVPを獲得。パ・リーグ制覇の立役者となっていた。

 チーム最多の16勝を挙げ日本シリーズでも第1戦、第4戦、そして第7戦の先発を任された山根和夫は、当時の様子を以下のように振り返る。

「シリーズ前のミーティングでは『ブーマーの前にランナーを出さないこと』を合言葉に、徹底したインコース攻め、極端に言えば『抑えられないならば勝負を避けろ』という作戦でした」

 3勝3敗で迎えた第7戦。先発マウンドを託された山根は、チームの戦略を忠実に遂行した。初回に弓岡敬二郎からソロ本塁打を浴びたものの、ブーマーを軸とするクリーンアップを徹底的に攻略。9回2失点と、先発投手として文句なしの投球を披露した。

 エースの奮闘に打線も応え、衣笠祥雄、長嶋清幸の本塁打で同点に追いつくと、終盤の7回に3点、8回に2点を奪い一気に形成を逆転。中盤戦までの投手戦に終止符を打つ怒涛の畳み掛けで3度目の日本一を引き寄せた。

「1979年、1980年に続き、3度目となる第7戦での先発でした。6回までピンチの連続だったこともあり、私はコーチに『交代させてください』と話していました。後にも先にも『代えてくれ』と言ったのはこの時だけです。それほど勝って日本一になりたい気持ちが強かったです」

 結果的に山根は古葉竹識監督に続投を指示され9回を完走。最後の打者・石嶺和彦をショートゴロに打ち取り、日本シリーズ通算5勝目を手中に収めた。

「打ち取った瞬間、私はうれしい気持ちと同時に『終わった』とやり切った感覚でした。野球人生最高の瞬間だったことに間違いはないですし、初めて胴上げ投手になることができました」

 チーム防御率1位と“投手王国”真っ只中だったチームは、日本シリーズでも投手力を発揮した。ブーマーを打率.214、本塁打ゼロと完璧に封じ込めることで、カープが4年ぶり3度目の日本一に輝いた。なお、カープにとっては2026年現在、1984年が最後の日本一となっている。

【山根和夫】
1955年8月2日生、岡山県出身
日本鋼管福山-広島-西武(1977年ー1990年引退)
1975年のドラフト2位で指名されるも、所属チームから慰留を受けたため、翌1977年に入団。プロ3年目の1979年に8勝を挙げると、1980年には14勝。1984年にはキャリアハイとなる16勝を挙げる活躍で、リーグ優勝・日本一に大きく貢献した。1986年オフにトレードで西武に移籍。西武ではリリーフとして活躍するも1990年に現役引退。1997年から3年間は日本ハムでコーチを務めた。

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