カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 今回は、2002年の永川勝浩、1999年の河内貴哉の獲得エピソードをもとに、苑田スカウトが意識していた“伸びしろを見抜くポイント”を紹介する。

2002年自由獲得枠で入団した永川勝浩選手。1年目から25セーブをあげ守護神として活躍。通算527試合に登板し、球団最多の165セーブをマークした。

◆ 最も大事なのは『成長する可能性』。これがゼロになったときが引き際

 その時点の能力だけを見極めるのがスカウトの仕事ではない。個人の『成長する可能性』を読み取ることこそが重要なのである。企業の入社試験などもそうであるかもしれない。むしろ、その時点の実力よりも、将来性を見通すことのほうが難易度は高いであろう。

 苑田は、スカウティングでVTR映像に頼ろうとはしない。

「もちろんVTRも参考になりますが、それはあくまでも撮影した時点での選手の姿です。編集によっても左右されてきます。私はグラウンドで実際に選手を見ることを大事にしたいです」

 2002年、自由獲得枠で指名した永川も苑田が担当した選手である。1年目からルーキーとしては球団史上最高の25セーブをマーク。さらに、球団史上最高の通算165セーブをマークする守護神にまで成長した。1年目の活躍から『即戦力』の色合いを濃く見られがちだが、永川獲得の決め手も『成長する可能性』であった。

 彼のスカウティングにおいても、VTRを重視した記憶はない。

「あまり映像を駆使した記憶はありません。それより、自分の言葉を報告書に書き込んだことを覚えています。『150キロを超えるストレートとフォークの質』『勝負球は大魔神(佐々木主浩)以上』『50点満点で50点に近いフォーク』だと書きました」

 数字を用いたデータではなく、『力のあるストレート』『フォークは一級品』などレポートには苑田の体温が感じられるような言葉が並んだ。

「推薦したい選手がいたら、上司にも先輩にも、その選手の良いところがどんどん言えるようでないといけません。そのために試合を見て、スコアブックに書き込んでおく作業が必要です」

 苑田は、永川の魅力を力説した。

 「平均的な選手は必要ありません。特長が必要です。彼は速球と2種類のフォーク、タイミングの取りづらそうなフォームなどのはっきりした特長がある選手でした」

 そして、速球やフォークの威力以上に高く評価したのが、『成長する可能性』であった。当時、彼は木佐貫洋と亜細亜大の主戦投手の座を争っていた。東都大学野球リーグ戦では、1戦目にエースが、2戦目に準エースが先発することが多かった。

「永川は3年生の頃にグッと成長しました。そして4年生になると、リーグ戦の初戦に永川が投げたり木佐貫が投げたりと、競い合っていたおかげでお互いに伸びていきました。それに、永川は走ることが好きで、練習でも率先して走っていました」

 ライバルの存在を力に変えられる。走り込みを厭わない。そこに、永川の『成長する可能性』を見たのである。

 そして1999年、3球団競合の末、交渉権を獲得した國學院久我山高の左腕エース河内貴哉の決め手も『成長する可能性』であった。

「150キロ以上のストレートに素晴らしいカーブでした。当時カープの主力投手だった黒田(博樹)とも長谷川(昌幸)とも違うタイプでした。投げ方も良くて、ひじを痛めることはないだろうとも思いました。それに、マウンドに立つと打者に全力で向かっていました。自信があったのだろうと思います」

 さらに苑田を確信させたのは、ランニングに取り組む姿勢であった。

「監督に聞けば、すごく走り込むらしいです。走るのが好き。だから、走る。走るから下半身がしっかりする。下半身がしっかりするから腕が振れる。これで成長しないはずがありません」

 練習態度、性格、体格。苑田は『どんな選手が伸びるのか』を野球界で見続けてきた。それらは、映像や資料には投影されないかもしれない。だからこそ、スカウトの出番なのである。

「高校生は短期間で大きく変わります。いかに伸びしろを見極めるかは大きなポイントです。2年生で伸びて、3年生で伸びない高校生に魅力はありません。高校生は、2年生秋の新チームになると3年生の春まで一気に伸びることが多いです。でも、我々が求めるのは、その3年生春以降にもう一段階伸びる高校生です。これは、選手をずっと見ていれば分かることです」

 河内はルーキーイヤーに初勝利をマークすると、5年目の2004年には先発ローテーションの一角として8勝をマーク、オールスターゲームにも出場した。その後2008年に左肩関節唇および腱板部の修復手術というアクシデントが彼を襲ったが、懸命のリハビリ、そして育成契約を経て復活。2012年に2007年5月8日以来、1482日ぶりに一軍登板したことはカープ史に残るカムバック劇であった。

 これらの野球人生を支えた土台になったのが、苑田が見てきた『走り込みを大事にする姿勢』や『強い心』であった。『成長する可能性』は若き日だけのものではない。年月を経て、選手が逆境に立たされたときの『強さ』にも直結しているようである。

 人間は、どこまでいっても成長していくことが大事である。その可能性がゼロになったときが引き際なのかもしれない。苑田は、自らの現役引退の話をしてくれた。

「現役晩年のことです。ある日、これまでグラブの芯で捕球できていた内野ゴロが捕れなくなりました。内野守備には自信がありましたが、グラブの芯で捕ったつもりが、グラブの網の部分で獲ることが多くなりました。おかしいなと思ってダッシュして体のキレをつくって、もう一回、阿南(準郎)コーチのノックを受けました。それでも、グラブの芯で捕球できる回数が少なくなってきました。こうなると、自分の成長はありません。若い選手にバトンタッチだと思いました。故障はどこにもありませんでした。引退を決めてからは周囲には、まだやれるだろうと言われました。でも、自分には広岡コーチから教わった最高のもの(守備)があったのです。それができない以上、引退だと思いました」

 これほどまでに、苑田は『成長の可能性』にこだわっている。プロ野球の世界は、パワー、スピード、さらには視力を含めた極限の感覚すらも必要になってくる。我々には、理解できる世界ではない。しかし、『成長する可能性』という言葉を『向上心』と置き換えてみると、日々の仕事や生活のなかでも大いに参考になるはずである。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。