◆記録では測れない思い出も刻まれたナンバー

 黒田のキャリアスタート時に後の活躍のキッカケをつくったのが、当時二軍監督だった安仁屋宗八だが、彼も現役の一時期に『15』を着けていたという事実がある。まだアメリカ占領下にあった沖縄から初のプロ野球選手となり、1968年には23勝を挙げて最多勝を争うなど、チーム初のAクラス入りに貢献。阪神に移籍していた安仁屋が1980年に復帰した際に着けたのが『15』で、その翌年に引退するところまで、黒田とは不思議と共通点がある。

 そもそも背番号『15』の歴史は、1950年の球団創設時まで遡れる。初代は軟式野球から転向し、1936年にはプロ初代の奪三振王(当時はタイトル未制定)に輝いた内藤幸三だ。カープ創設にあたって投手の大黒柱の座を用意されて阪急から移籍。開幕投手となったのみならず、チーム初の勝利投手の栄誉も得た。だが当時すでに34歳とあって、翌シーズン途中に引退。

 この他、「炎のストッパー」と呼ばれて大活躍した津田恒実(当連載の初回、『14』の項で詳述)も入団当初の1982年から1984年までつけるなど、『15』は投手の番号というイメージが強い。野手も5人が背負っていたが、その中で活躍したのは小鶴誠だ。

 小鶴は戦時中からチームを転々として活躍したが、1953年に石本秀一監督に説得されてカープに入団。これが初めての自分の意志での移籍で、1958年の引退まで6シーズンをカープでプレーした。

 時を経てこの『15』が永久欠番に制定されたのは、黒田が現役を引退した2016年の11月1日。日米を股にかけた活躍が評価されたのはもちろんだが、カープファンにとっては2014年オフ、引く手あまただったメジャー各球団を振り切って戻ってきてくれたことが、何よりの“貢献”だったはずだ。『15』の永久欠番には、記録だけでは測れない思い出も刻まれているのである。

【背番号『15』を背負った主なカープ選手】
内藤幸三(投手/1950年-1951年)
小鶴誠(内野手/1953年-1958年)
安仁屋宗八(投手/1980年-1981年)
津田恒実(投手/1982年-1984)
黒田博樹(投手/1997年-2007年、2015年-2016年)
※2016年11月1日、永久欠番に制定。