もちろん、中学でも野球は続けました。最初はボーイズリーグのチームに入りました。硬式球になっての初ヒットは真冬に打った、どん詰まりのヒットでした。球は硬いし、寒いし、手がちぎれそうな感覚だったのを覚えています。週末には遠征でハードな移動がありましたし、費用の面でも両親には迷惑をかけたなと思います。

 その後、鯖江市立中央中学校の野球部に入ると、素晴らしい指導者に出会うことができました。川上一規監督という方で、飽き性な僕に『飽きさせない練習』を提供してくれました。『うねり打法』や『シンクロ打法』など、当時話題になったさまざまな打ち方を教えてくれました。厳しい中にも、自由がある、本当に最高の指導者でした。 そこから、僕が進学したのが福井県立福井商業高校です。ここで野球をやるのが昔から目標でした。母方の祖父が福井商高のOBだったんです。早くに亡くなっていたのですが、『福井商高で野球をやって欲しい』と言っていたことを母から聞いてから福井商高で野球をすることが目標になりました。もちろん、そのために勉強も頑張りましたよ。

 2年の夏に甲子園に出場し、3年春のセンバツ甲子園ではホームランを打つことができました。その頃から、野球雑誌などの『スカウト評』のところに、自分の名前が挙がるようになりました。『頑張ればプロ野球に行けるかも』という思いも強くなりました。

 プロ野球の世界に進むものだと強く思っていた僕は、学校の進路相談会などには出席していませんでした。その後、2001年秋のドラフト会議でカープに9巡目で指名してもらい、プロ野球の世界に挑戦できることになりました。

 『うれしかった』のはもちろんですが、『ホッとした』気持ちもありましたね。というのも進路相談会に出ず、プロ野球以外の他の進路を考えていなかったわけですから。ドラフトにかかっていなかったらと考えるとゾッとしますね(苦笑)。

 カープに入って最初のキャンプは、やはり二軍スタートで、練習にもついていくことができました。2月はなんなく乗り切った感じでしたが、3月のオープン戦(教育リーグ)に入って、状況が全く変わりました。阪神の安藤(優也)さんの投球はロジンの白い粉がパッと舞ったのを最後に球は消え、キャッチャーミットに吸い込まれていました。すごい球のキレで、完全に委縮してしまいました。それに、ホークスは斉藤(和巳)さんです。球がうなっていました。「なんだコレは!」の世界でした。

 でも当時18歳だった僕はポジティブな性格でもありましたから、『何とかなるだろう』と考えていました。実際、何ともなりませんでしたけどね……。当時は技術の問題だと思っていましたが、今思えば、メンタルの問題でもありました。打てないことが続きすぎて、『どうやっても打てないものだ』とマイナス思考になっていきました。

 この後、開幕してから6カ月ノーヒットなど、早速プロの壁にぶつかることになりますが、僕はそこでもまた良い出会いに恵まれました。そのあたりは、次回以降にお話させていただきます。