◆「次の試合は投げないで欲しい」

「悪いけど、次の試合は投げないで欲しい。他にも君に興味を持った球団が出てきた。このままでは君をドラフト外で獲れない場合がある」

 しかし私は「チームのためにも投げない事はできません」と言った。すると小林コーチは「気持ちはよくわかった。無理しないように頑張れ」と言ってくれた。それ以来カープは私の獲得に俄然本腰を入れるようになった。

 そして1980年11月26日のドラフト会議当日。

 営業から社内勤務となって普通通り仕事をしていた私は、昼頃になって会社がざわついているのに気づいた。間もなく上司に「川口、マスコミが大勢来ているぞ。お前、広島カープのドラフト1位だ」と言われて正直驚いた。

 「えっ、何で1位なんだろう。ドラフト外の予定なのに(笑)」

 カープは最初、1位に東海大学の原辰徳さんを入札したが、抽選の結果、原さんの交渉権は巨人が獲得した。カープは改めて1位として私を指名したのだが、俗に言う「はずれ1位」でも最初に声をかけてくれた球団がこれだけ高く評価してくれた事で、私の中ではさらにカープ入団への意思が強くなった。

 会社側とカープ球団との話もまとまって、私は80年12月、21歳の秋に広島東洋カープと契約して念願のプロ野球選手となった

 1981年1月、私はルーキーとしては異例の抜擢で主力選手がそろう湯布院自主トレに参加した。体育館でキャッチボールをしていると、山本浩二さんや衣笠祥雄さん(が「おー、お前がドラフト1位か、ちょっと投げてみぃ。真っ直ぐとカーブだけでいいから」と私のもとにやってきた。私は直球とカーブを投げ分けたが、球を離す直前に浩二さんと衣笠さんに球種を百発百中言い当てられたのである。

 しかしそれは、最初の驚きでしかなかった。

(第4回へ続く)

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