◆他球団との予算規模の違いは歴然。試合も食事も満足にできない環境

 一方で、球団の倍増によりチャンスが増え、一層多くの若者がプロ野球選手を目指して広島県外からも球団の門を叩いた。

 発足1年目からエースとなりカープOB会長を務めた長谷川良平も、中央球界では無名の存在だった。愛知県の半田商工から地元企業で野球を続けていた長谷川は、叔父が広島市役所に勤務していた事もあって地元の中日ではなくカープに入団した。「実家から遠かった事が成功する一因でもあった」と長谷川は当時を述懐する。

 石本監督、白石助監督兼選手、そして長谷川、長谷部などの新人も加えたカープは、1950年3月10日、福岡・平和台球場で西日本パイレーツとの記念すべき開幕戦に臨んだ。初勝利は3試合目の3月14日、地元広島総合球場で国鉄に16ー1の圧勝。球場の盛り上がりは大変なものだったという。

 ただ発足から数年は、真の戦いはむしろグラウンドの外にあった。

 元来他球団との予算規模の違いは歴然としており、しかも1952年までの3年間はプロ野球にはホーム&ビジターという制度がなかった。入場料収入は各試合での勝チームが7割、負チームが3割得る仕組みだった。このため遠征が多い上に戦力的に劣るカープは、支出が増えても収入が増えず、資金難はますます深刻になっていった。

 遠征では巨人などは二等車でも、カープは三等車。床に新聞を敷いて折り重なって寝たり、選手によっては網棚に上がって寝た者もいた。経費節約のため遠征地によっては選手の実家に寝泊まりや食事をお願いする事もあった。当時の交通事情では試合と移動でほとんどの時間を費やし、敵地では練習などが満足にはできなかったという。

「対戦相手が費用を負担してくれる時は待遇が格段に良くなり、食事もおいしかった」と長谷部は遠征の楽しみを語った。しかしその分広島に戻っての寮の食事に一層寂しさを感じたという。

「おかわりなんて出来ないし、おかずも少ない。僕達のような当時20歳前後の若い選手達にとっては、満足行くまで食べられた事なんてほとんどなかった」

 そして遂に、選手達の月給の支払いも滞っていった。

「まず当時の僕らなど扶養家族がいなくて他球団からの引き抜きの心配もない若い独身選手から未払いが始まった。何かで現金が入った時に少しずつもらえるといった感じだった。確かに額面では市役所に入った同級生の約3倍あったが、遠征などが多くて出費もかさむので実質残るお金はほとんど変わらないし、それが滞ったのだから一層不満に思った選手も多かった」と長谷部。

 そして前半戦が終わる頃遠征から広島に戻ると、二軍の選手はみんな郷里までの旅費を受取り実家に帰ってしまっていた。

(続く)

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