広島東洋カープの前身である「広島カープ」の誕生は1949年。今から77年前のことだ。復興の象徴として県民の心の拠り所となった広島初のプロ球団は、長い低迷期、輝かしい黄金期など、ファンの喜怒哀楽とともに歩みを続けてきた。

 ここでは、広島アスリートマガジンで2004年に連載された【広島東洋カープ創立55周年記念特別連載企画/黄金期を築き上げた軌跡】を再編集して紹介する。1949年に創設した『広島カープ』を最初の難敵は、相手チームではなく資金難だったという。

2026年シーズンの開幕が迫るカープ

◆勝つ事以上にやるべき事、それが資金集めだった

 カープの栄光の歴史を振り返る際に、1945年8月6日の原爆投下を抜きに語る事はできない。命も街も富も焼き尽くされた広島は、復興へのシンボルを戦前から盛んだった野球に求めたのである。

 そして1949年、日本野球連盟総裁・正力松太郎による2リーグ構想表明を受けて、同年9月28日、元代議士・谷川昇、広島電鉄専務・伊藤信之、中国新聞社代表取締役・築藤鞆一の3氏が連名で、『広島カープ』の加盟を求める文書を提出した。広島城の別称『鯉城』で、鯉は滝を登り龍となる神話のある威勢の良い魚ということでチーム名となった。

 そして申請からちょうど2ヵ月後の11月28日、カープは巨人、中日、松竹、阪神などが属するセ・リーグに加盟が認められた。初代監督は阪神などで監督経験のある石本秀一。広島商監督時代に『真剣の刃渡り』など伝説の練習を実行した野球の鬼である。

 選手については鶴岡一人(広島商出身)、岩本義行(広陵中出身)、藤村富美男(呉港中出身)など地元出身の大物の加入も噂されたが、全国的なスターで戻ってきたのが広陵中から巨人に進み名遊撃手と呼ばれた白石勝巳(広陵中出身)である。白石は助監督兼任でチームの精神的支柱となった。

 ただカープに集まった現役選手の多くは、他球団と比べると峠を過ぎたベテラン、もしくは経験の浅いどちらかと言えば無名の選手だった。理由はもちろん、親会社を持たない事による資金難。被爆からの復興で精一杯の広島では、行政も財界も球団に資本を注ぎ込む余裕などあるはずもなかった。現役の一流選手、あるいは有望な新人の獲得競争では他球団にはかなわない。不足分は地元を中心とした無名の新人で補った。

 現在広島カープOB会の副会長を務める長谷部稔も、その一人だった。「公式戦開幕から2ヵ月前の昭和25年1月16日に広島総合球場(現県営球場)で入団テストがあった。皆実高校の野球部仲間と力試しのつもりで受験したら、石本監督に『お前は合格じゃ』と言われた」。さらに長谷部が入団すると「お前の仲間を紹介してくれ」と石本監督に頼まれ、学校の同級生の投手も入団させたという。

 また、当時軟式野球の強豪だった県庁などの自治体、あるいは地元企業などからも野球自慢の職員を入団させた。県内各地の有力者からその地域で名の知れた選手を紹介され獲得した例もあるという。無名の地元選手を入団させる事で契約金や年俸を安く抑える事が実現できたが、カープの狙いはそれだけではなかった。選手を生んだ自治体、企業、地域や個人に資金の他有形無形の支援を取り付ける事も大きな目的だった。