◆「リリーフだってピッチャーだぞ」。コーチからの一言で転向を決意
病室に行って巨人のユニフォーム姿を見せると、義父は自分の事のように喜んでくれた。そして私の登板を見る事なく、1995年3月に59歳で亡くなった。
移籍をしたものの私は35歳となり、巨人ではカープ時代のような全力投球はできなかった。1年目の1995年は4勝6敗で、翌年チームは最悪のスタート。私も先発で全く勝てず、5月には二軍調整となった。その頃には「これ以上チームや長嶋さんに迷惑をかけてはいけない。もう引退しよう」と思いながらジャイアンツ球場で練習していた。
その頃、二軍の投手コーチだった宮田征典さんから「もう一花咲かせてもいいんじゃないか」と言われた。しかし私は「もう先発では投げられないし、今年限りで辞めますよ」と返した。すると宮田さんはこう言った。
「リリーフだってピッチャーだぞ。投手としてリリーフというものを一回勉強してみろよ。お前が引退してもし解説者になった時などに、バリエーションが増えてくるぞ」
そして宮田コーチの指導でリリーフ投手としての自分を作っていったのだが、私が感じたのは、「先発とリリーフというのは、同じ投手でもまるで別のポジションのような大きな違いがある」という事だった。
具体的に取り組んだのは、投球フォームのマイナーチェンジだ。先発と違ってリリーフでは確実にストライクを先行させる事が重要になってくるからであった。
そういう意味では、現役時代にリリーフのプロフェッショナルだった宮田コーチには非常にさまざまな事を教わったし、コントロールをつけるためのノウハウもいろいろ教えてもらった。
(最終回へ続く)
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