背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

2019年に引退したエルドレッド氏。現在はカープの駐米スカウトを務めている。

 今回取り上げる背番号『55』は、近年までは全体的な傾向がそれほどはっきりしない系譜を辿ってきた。1963年に初めてつけたのが内野手の原勇治(1年のみ)で、その後は投手がつけたり野手がつけたり、空白の年があったり。

 それでも投手は白石静生が6年、小林一史が4年など、ある程度の期間つけていた選手も多い。その中で、まず活躍したのが紀藤真琴だ。1983年のドラフト3位で入団した紀藤が最初に与えられたのが『55』で、しばらくは一軍登板は叶わなかったものの4年目の1987年から頭角を現し始めた。

 この年は勝ち星こそなかったが18試合に登板して足がかりを築き、翌年からは徐々に実力を伸ばしていった。もっとも、1988年から背番号は『12』に変更。『55』時代はまさに土台づくりの時期であった。

 1988年は期待に応え防御率2点台で乗り切る安定感のある投球を見せると、1989年からは背番号『11』に。中継ぎとしてリーグトップとなる61試合登板を果たした。1991年も36試合に登板し、5年ぶり6度目となるリーグ優勝に貢献した。

 1994年から先発に転向するとキャリアハイの16勝をマークし、最高勝率(.762)のタイトルを獲得した。1996年まで3年連続二桁勝利を挙げたが、血行障害などの故障に悩まされ1997年以降は成績が下降。2000年のシーズンオフに中日にトレード移籍した。

 その後も投手と野手の間を行ったり来たりだった背番号『55』は、次第に野手に定着することになる。その転機となったのが、自身も投手から野手に転向した嶋重宣が2004年につけてからのことだ。1994年ドラフト2位で投手として入団した嶋は、当初は川口和久のFA移籍により空位となった背番号『34』を受け継いでいた。

 1999年に野手に転向し、2000年からは笘篠賢治の引退で空いた背番号『00』に。2002年にはウエスタン・リーグで首位打者を獲得するなど、着実に成長を果たしていた。転機となったのは、まさに背番号『55』を背負った2004年だ。シーズン通して好調をキープし、監督推薦でオールスターゲームにも初出場。首位打者、最多安打のタイトルを獲得したほか、ベストナインの表彰も受けた。

 ニューヨーク・ヤンキースでも引き続き『55』を背負った松井秀喜と同じ番号だったこともあり、つけられたニックネームは“赤ゴジラ”。これが広く浸透して話題となり、2005年には自己最多の143試合に出場する活躍を見せた。