カープの勝利の方程式争いが例年以上に白熱している。右膝手術によるフランスアの離脱を受け、抑えはドラ1右腕の栗林良吏が濃厚だが、森浦大輔、大道温貴らの台頭もありセットアッパーは良い意味で流動的だ。ここでは3月6日のヤクルト戦で9回のマウンドを託された塹江敦哉をピックアップ。昨年、キャリアハイの数字をマークした本格左腕の原点を振り返る。

昨年はキャリアハイの52試合に登板。3勝19ホールドをマークした塹江敦哉投手。

◆高校1年の秋から背番号1番に

― プロ入りして4カ月が経ちましたが生活には慣れましたか?

「試合にはほとんど出ていませんが、だいぶ慣れてきました。野球については想像通りですが、野球以外の時間でもたくさん勉強させてもらっています。先輩から社会人としてのマナーなどいろいろ教えていただいているので、社会人としての自覚も身についています。いろいろ失敗もありますがなるべく自分から気づいたり、周りをみて率先して行動するということが野球に繋がる部分もあると思うので、日々意識しながら過ごしています。年の近い(中村)祐太さんもそうですが、(中村)恭平さんや池ノ内(亮介)さんもいろいろ教えてくれます」

― プロ野球選手を目指されたのはいつだったのですか?

「野球を始めたときからずっとプロ野球選手になりたいと思っていましたし、なぜか分かりませんが、努力さえ続けていればなれると思っていました。昔は背が小さい方だったので周囲も親も『何を言っているんだ』という感じでしたけど、どこか諦めきれない自分がいたんです。中学校のときもエースではなかったんですが、“プロ野球選手になれる”という根拠のない自信だけはありました」

― 実際にエースとして試合に出るようになったのはいつ頃からですか?

「1番をもらったのは、高校1年の秋からです。中学時代の球速は120キロ出るかでないかぐらいだったのですが、身長も伸び、球も硬球に変わったこともあってか、高校入学時に135キロが出たんです。中高一貫校ということもあり、中3の夏から高校の練習に入り、高校のコーチにつきっきりで指導していただいたことも関係していると思います」