背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

勝利の方程式の一角としてリーグ3連覇に貢献した今村猛投手。早期の復活が期待されている。

 一般に“エースナンバー”と言われる背番号『18』を中心に、カープの場合『11』から『24』は投手が占める割合が高い。この「投手エリア」の中で、球団創設年の1950年から今季まで72シーズンの間の「投手占有率」が一番高いのは、実は今回取り上げる『16』だ。

 この背番号『16』、球団史スタートから最初の2年は内野手の武智修がつけたが、その後1952年のみの萩本保から現在背負っている今村猛まで、70シーズンにわたって途切れることなく投手のみがつけているのである(ちなみに投手しか並んでいない番号もあるが、空白年も多かったりして、全体の年数に占める割合では『16』の方が上)。

 その中でまず取り上げたいのが、1957年に5人目として『16』をつけた備前喜夫。地元の尾道西高から1952年に入団したが、最初は背番号『14』、姓も「大田垣」だった。このルーキーイヤー、“バンビ”こと大田垣喜夫は開幕戦に登板し完封勝利という、いまだ破られていない快挙を達成している。

 この1957年には結婚により「備前」に改姓し、背番号も変更。その効果があったか20勝13敗という成績を残し、11年のキャリアで唯一、勝ち越している。1962年限りの現役引退後も球団に残り、投手コーチや二軍監督を歴任。1977年にはスカウトに転身した。途中、3年間の二軍監督復帰を挟んで2002年まで通算23年間にわたってスカウトを務めたが、実は備前の最大の活躍はこの時期だった。

 何しろ現在、カープの歴史に名前を残している選手の大部分に、備前が関わっていると言っても過言ではないほどなのだ。北別府学、川口和久、佐々岡真司、黒田博樹、野村謙二郎、緒方孝市、新井貴浩、前田智徳……まさにそうそうたる面々だ。そんな備前の回顧録は、再録連載『カープの名スカウトの証言』(https://www.hiroshima-athlete.com/subcategory/カープの名スカウトの証言)を参照されたい。