背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

1994年〜2013年まで20年間、背番号「1」をつけた前田智徳氏。

 1950年の球団創設時、やはり背番号「1」は重要な番号だった。この番号は巨人で活躍し、地元での新球団創設を聞いて駆けつけた白石勝巳(移籍にあたって登録名を本名の「敏男」から「勝巳」に変更)に与えられた。当時の広島では唯一のスター選手と言われた白石は、期待通りの活躍でチームを引っ張り、1953年のシーズン途中からは監督を兼任。これを機に背番号「1」を譲り、自らは「30」を着けた。

◆カープを初の日本一に導いた古葉竹識

 1959年から4人目として「1」を着けたのが、「29」から変更した古葉毅だ。この表記よりも、1964年から改名した「古葉竹識」のほうが多くのファンに馴染み深いだろう。そう、後に監督に就任し、カープを初のリーグ制覇と日本一に導いた、“あの古葉”である。実業団でもプレーし、前述の白石が監督を務めていた1958年に入団した古葉は、初年から88試合に出場。翌年から「1」を着けた。

 尻上がりに成績を上げていった古葉は、1963年に長嶋茂雄と首位打者争いを繰り広げたが、死球で大ケガを負い戦線離脱。この年はベストナインを獲得したが、この負傷が後の選手生活にも変化をもたらした。以後、盗塁王を2回獲得するなど走攻守に活躍し、1969年限りで南海に移籍。

 その後、1975年シーズン途中にカープの監督に就任し、初年からリーグ制覇、そして1979年には初の日本一。翌1980年と1984年にも日本一となり、カープ黄金時代を築き上げた。

 1975年には日本ハムから移籍してきた大下剛史が、1967年のデビュー以来着けてきた「1」をそのまま使用。プロ9年目のカープ初年は盗塁王を獲得する活躍を見せ、1978年まで4シーズンをプレーして現役生活に幕を下ろした。

◆超高校級と評され入団した山崎隆造

 その後、投手の大久保美智男を挟んで1983年、「23」から変更して「1」を背負ったのが山崎隆造。山崎は地元・広島の崇徳高で甲子園に2度出場し、1976年にカープからドラフト1位指名を受けた。古葉監督の指導でスイッチヒッターに転向し、徐々に成績を上げていくと、「1」に変更した1983年には初めて出場試合数が100を超え、打率も3割を超えた。

 翌1984年以降は6年連続でフル出場。以後ベストナインを3回、ゴールデングラブ賞を4回受賞する活躍で野手を牽引した。90年代は三塁手としても出場し、1991年のベストナインは三塁手として受賞。1993年限りで現役を引退するまで「1」を着け、以後は2011年までコーチや二軍監督などを歴任した。