広陵時代、同学年の中村奨成らと共に2017年夏の甲子園で準優勝に輝いた丸山壮史。強豪校での厳しいレギュラー争いの経験は、次のステージに進んだ彼の原動力となっている。早稲田大の主将としてプレーする丸山の高校時代は、どのような時期だったのだろうか。

現在は早稲田大主将としてプレーする丸山壮史選手。

◆高校3年夏、広島大会での悔しさが甲子園での結果につながった

「涙が止まらなくなりました。本当に悔しくて2時間くらいひたすらティーバッティングをしていました」

 広陵で中村奨成(広島)らとともに全国準優勝を果たし、現在は早稲田大で主将を務める丸山壮史には、今でも忘れられない思い出がある。

 兵庫県神戸市に生まれた丸山が、広陵高に憧れたのは小学2年生の夏。長崎にある母の実家を訪れる前に広島に立ち寄り、旧広島市民球場で広陵高の試合を観戦したことだった。野村祐輔(広島)と小林誠司(巨人)を擁し、その後甲子園でも準優勝を果たす姿に心を奪われた。

 「スタンドの選手も必死に応援していましたし、広陵高の選手が輝いて見えました。直感的にかっこいいと感じました」

 その後、チームに入って本格的に野球を始めると、小学6年時には阪神タイガースジュニアに選出。中学時代は田中将大(楽天)らが所属した宝塚ボーイズでプレー。春夏連続で全国大会に出場し、憧れの高校の門を叩くことになった。

 入学直後の練習で「すごいところに来てしまった……」とレベルの違いに圧倒された。

 2年の秋にもらえた背番号もベンチ入りギリギリの『20』そこで冬場はこれまで以上に目の色を変えた。

 「1日1000本は必ずバットを振るようにしていました。近代的ではないですが“誰にも負けない量をやっている”という事実が自信につながると思って」

 実際、ひと冬を越えて春になると打席に入った時の自信が違った。自信と比例するように結果も出て背番号『5』を背負うまでになった。しかし、それでレギュラーが安泰にならないのが強豪校だ。夏も『5』で迎えることができたが、思うように結果が出ず、県準決勝ではバントが併殺に終わり交代を命じられた。

 チームは勝利し『あと1つで甲子園』という雰囲気だったが、丸山は悔しくてなかなか部屋に戻れなかった。そんな時、声をかけてくれたのが中井惇一コーチだった。

 「悔しかったらひたすら泣いていい」

 その言葉に丸山は溢れる涙を堪えることができず、その後マンツーマンでのティーバッティングは2時間にも及んだ。

 「“お前のミスで負けるようなチームじゃない”“今度はお前が助ける番だぞ”と言われて、もう一度頑張ろうと思えました」

 県決勝と甲子園2回戦まで出番はなかったが、3回戦の聖光学院戦から正遊撃手・高田桐利(法政大)の負傷でスタメンに復帰すると同点打を放ち勝利に貢献。準々決勝の仙台育英戦でも4打数2安打1打点、準決勝の天理戦では4打数3安打1打点、そして「心から“やってきて良かった”と思えました」という本塁打をライトスタンドに叩き込んだ。

 「諦めずにやることの大切さは今も感じています。中井先生(哲之監督)に最後のミーティングで“準優勝で良かったと思えるような人生にしていけ”と言われたからこそ、大学でもう一回日本一を目指しています」

 昨年は東京六大学秋季リーグを優勝したもののコロナ禍のため全国大会は開催されず、今春はリーグ5位に低迷。巻き返しを図るチームを主将として牽引する中で今も支えになっているのは「頑張れば報われる」と身を持って感じた広陵での成功体験だ。

取材・文:高木 遊