“あのシーズンの今日のカープ”はどんな出来事があったのか?を振り返る本企画。今回は今から30年前の今日、1991年10月13日。“カープが6度目のリーグ優勝を飾った日”を改めて振り返っていく。

1991年、選手会長としてチームを牽引した山崎隆造氏。この年6年ぶりの打率3割を記録した。

 山本浩二監督就任3年目の1991年、カープは前年まで2年連続2位もシーズン前の下馬評は決して高いものではない中でスタートした。

 打線はプロ3年目の野村謙二郎に江藤智、プロ2年目の前田智徳など若手選手に、選手会長の山崎隆造、達川光男、西田真二、小早川毅彦、正田耕三など優勝を知るベテランをうまく組み合わせて戦っていった。投手陣は最多勝を獲得するなどシーズンMVPに輝くことになるプロ2年目の佐々岡真司が先発の中心としフル回転。さらに川口和久、北別府学、ストッパーの大野豊など経験豊富なベテラン投手たちが奮闘した。

 またこのシーズンは、大野豊とのダブルストッパー構想の1人であった津田恒実が病に倒れるアクシデントがあった。脳腫瘍という理由は球団一部の人間だけに知らされていたが「津田のために」と一丸となり、見えない力もチームを後押しした。

 この年チーム本塁打が88本と貧打に泣いたが、盗塁王に輝いた野村謙二郎を中心に機動力野球を展開。そしてリーグトップのチーム防御率を誇った強力投手陣が1点を守り抜く野球で、粘り強く勝利を重ねていった。一時は首位から7.5ゲーム差をつけられていたものの、シーズン終盤に首位を快走していた中日を捉えた。

 そしてマジック1で迎えた10月13日。広島市民球場で行われた阪神とダブルヘッダー第1戦に敗れたものの、第2戦でシーズンを象徴するような戦いを見せた。初回、4番・西田真二のタイムリーで先制すると、先発の佐々岡真司が8回途中まで相手打線を零封。最後は大野豊がパーフェクトリリーフを見せた。結果的に“1対0”で優勝を決めた。

 “ミスター赤ヘル”が監督として初の胴上げとなり、祝勝会ビールかけがグラウンド内で行われるなど、カープナインはファンと共に美酒を味わった。